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この間、エジプトの友人、日本語を学ぶ学生、事務所のスタッフやセキュリティから電話やfacebookで次々と家族の安否確認とお見舞いが寄せられた。インドの友人からも勇気づけられるメッセージが届いている。日本人は世界から愛されていると、いつにも増して実感。
特にエジプトの友人たちは、革命もまだ道半ば、治安の不安と闘いながら、ダメージを受けた国の経済や社会システムの再建のために働いている。そういう苦しい時間を生きているからこそ、同じ地平で心からの同情を寄せてくれるのかもしれない。
たくさんの暴徒に襲われて歩みをくじかれたかに見られた革命勢力のデモ活動。今日のタハリール広場は、引き続く暴力を恐れて人々は出てこないだろうと思っていたら、数こそ以前のような数十万という単位とはいかないまでも、タハリール広場と国営テレビ前にたくさんのキリスト教徒(コプト教徒)とムスリムが集結し、Friday of National Unity(国民統一の金曜日)と銘打って、体制やメディアが国民に印象づけようとする「宗教間対立」のイメージを改めさせようと声を上げた。人々の連帯精神が実感できる映像をごらんください(リンク:Ahram Online "Egypt holds Day of National Unity")。
力を持つ者たちが仕掛ける分断政治に対抗できるのは、人々の連帯だけ。それも狡猾な相手に負けないよう、十分に戦略的でなければならない。がんばれエジプト。がんばれ日本!
そして今朝。車でタハリール広場を通ったら、テントもデモしていた人たちも元気だった露天商も、みんなきれいさっぱり掃除され、兵隊さんとおまわりさんが大勢でいったいを監視していた。
こうやって、権力は、昨日までの出来事を人々に忘却させるんだなー。事務所に着くと、昨日僕をボディーガードしてくれた警備員も運転手もみんな、大喜びなのだ。昨日も書いたが、ムバラク退陣から1ヶ月たって、革命を継続して独裁政権のうみをすべて搾り出そうとする革命勢力と、普通の市民生活への復活を望む一般市民との温度差が大きくなっていることを痛感した。
タハリールのデモは誰にも危害を加えていないんじゃないかと事務スタッフの女性に聞くと、市民の感覚としては、そのデモが続いているおかげで、工場労働者や公務員など職業団体が相次いで便乗デモをやって、そのせいで一向に社会経済活動がもとに戻らない。おかげで自分たちもくいっぱぐれる。というところのようだ。各地で衝突を誘発させて治安面での不安を煽るのも、旧支配者層の常套手段で、今回も普通に戻りたい市民の気持ちをよーくわかっていて、巧みに不和の素を注入して人心を乱しているわけだ。
カイロ大学のデモも日本の大学紛争を彷彿とさせる盛り上がりで、NDPの薫陶を受けた学長、学部長らの即刻退陣と公選制導入をかかげて座り込んでいたが、近所から現れた暴徒に襲われ、ここでも夜のデモを控えることになったと報道されている(リンク:Ahram Online)。
タハリールやカイロ大学で組織された暴徒たちがどういう人たちで、どの程度NDPら旧支配層に操られているのかは不明だが、市民のなかに攻撃されたデモ隊に対する同情が薄れていることが問題で、この1ヶ月の市民革命の成果が道半ばで保守的ゆり戻しを余儀なくされることになりそうだ。さきほどの一流大学の日本語学科卒業のうちのスタッフが言うに、自分の友人のなかにもこの革命がアメリカとイスラエルとハマスとイランによって仕組まれていると信じて疑わなくて、そしてこれ以上不安な生活を続けるのは嫌だからタハリールが一掃されて嬉しいと思っている人がいるのだそうな。
メディアも革命を通してずいぶんと姿勢を変えたが、政府系はいまだに体制に都合のよいバイアスがかかっているし、独立系は組織力・取材能力の低さのせいか、本当の事実に肉薄できていないとは、先のスタッフの見立て。確かに、昨日のNile Internationalの報道、僕の耳が間違っていなかったら、タハリールに現れた暴徒を軍が逮捕したと報じていたが、デモ現場で被害にあった人たちのツイッター証言を信じれば、事実はまったくの正反対で、軍は中立とはいいがたく、暴徒と一緒になってテントを破壊し、デモ隊の何人かを拘束し、考古学博物館に連れていって拷問を加えたことになっている。革命勢力は、これから先、メディア戦略を立て直して、事実が市民に広く知られるようにしていかないと、この強力な反動の流れを食い止めることが難しいだろう。
ただ、ストリートを離れて政治プロセスの進展をみると、いまも改革のスピードは持続しているようにも見える。同じAhramの報道では、NDPの幹部の多くが辞任し、すでに政党として死に体になっていると言っている。解党して、改革派の市民受けのいい人間が新しい党を作ったほうがいいと、辞めた幹部が話している(リンク:Ahram Online)。出馬しないと言っていたエルバラダイが突如大統領選出馬に意欲を示した。アムル・ムーサも、若者文化のホームグランドEL SAWY CULTURE WHEELであふれんばかりの聴衆に迎えられたとか。
今日のツイッター、英語でフォローできるコミュニケーションを見る限り、デモを組織していた人たちは水曜日の事件のショックがよほど大きかったのか、恒例の金曜礼拝の後の大規模デモを予感させるような情報はまったく入ってきていない。アジトで戦略の建て直しをはかっているか。復活を期待したい。
ここ数日、革命の反動が目につくようになっていて、革命勢力のデザインしたとおりにここまで進展してきた改革プロセスに微妙な陰がさしているように見えます。
ヘルワンでのキリスト教会の焼き討ち、昨日のムカッタムでの両宗派グループのクラッシュという、異宗教の間に不信と怒りの楔を打ち込む動きがひとつ。
そして、INTERNATIONAL WOMEN'S DAYだった昨日、タハリール広場で女性の台頭な政治的権利を主張するデモを陵辱したくさんの女性に性的ハラスメントを行ったり、今日はタハリールでデモそのものを弾圧してテントを破壊するなど、改革勢力がこれ以上ストリートで政治的活動をすることを押さえ込もうとする動きがひとつ。
改革勢力のツイッターやブログでは、これらのすべてのアクションの裏には国民民主党、国家保安局、財閥勢力などのムバラク体制の元締めたちが策動していると断定する向きが多いですが、真相はわかりません。また、タハリール広場のデモを一掃してしまった今日の暴力について、被害者の証言は軍の兵士も暴徒の側にまわって攻撃をしたと述べているし、昨日の「宗教間対立」の犠牲者の体内から軍の発砲した弾丸が見つかったというコメントも聞かれ、ここまで改革勢力の要求に真摯に耳を傾け政治プロセスを進展させてきた軍の中立性が、また疑問視されているところが気になります。
それだけでなく、長引くデモンストレーションのせいで社会も経済も一向にもとに戻らないという不満が普通の市民の間にも拡大していて、今日こうして広場が暴力的にクリアされたことを多くの人がよきこととして評価する向きも、革命のプロセスに対する社会全体としての反動の兆候として強くなっているように思えます。
ムバラク打倒でひとつになったエジプト国民の意識が、それから1ヶ月たって多様化して、政治プロセスの進展がストリートの意見のクラッシュによって迷走することがないことを期待したいと思います。
Shadyaという人が歌った"Ya Habibty Ya Masr"(私の恋人、エジプトよ)
第4次中東戦争でも、国民を鼓舞してイスラエルに立ち向かわせたこの歌が、いま人々に自国の独裁者を倒す力を注ぎ込んだのでしょうか。サビのリフレインを聴いているだけで、自分もエジプト人だったら良かったのにと思えてくる、熱のこもった愛国歌ですね。
このYoutubeのコメントもエジプト人だけじゃなくて、シリア、アルジェリアなど、強権政治からの自由を求める国民からの熱烈な支持が多いですね。ロシア人もいます。こういうのを見ると、音楽は単なる娯楽にとどまらない力をもっていると、実感しますね。
劇的な大統領退陣を勝ちとったエジプトですが、それから1ヶ月たって、死滅しなかった旧既得権益層からの反撃なのか、ムバラク打倒のスローガンのもとひとつに結束していた国民を、またぞろ男と女、ムスリムとクリスチャンといった下位アイデンティティの裂け目で分断しようとする汚い力が勢いを増しているのが気になります。
国民の多くが求めた人格者Essam Sharaf新首相は、こうした対立が生んだ溝を埋めるために、自らすすんでストリートに下りて、同じ目線での市民との対話を政治プロセスとつなげようと努力しているようですが、暴力で人心を分断するようなアクドイ人たちに負けないで、力強い民主的制度を良心をもった市民層と力をあわせて作っていってほしいものです。
1月28日。この日を境に、革命は後戻りできない地点を通過した。
25日のタハリール広場でのデモ隊と警官隊とのすさまじい衝突を目撃した後、1月26、27日と僕はデモ隊が出かける準備をしているであろう午前中だけと決め込んでオフィスへ出かけ、東京との最低限の連絡や自宅に持ち帰る仕事の整理などを済ませてから、お昼過ぎには自宅に帰って、テレビでデモの状況をおいかけていた。25日に見た凄惨なバトルがさらにエスカレートして、たくさんの死傷者が出ていた。政権側もこれまでのように力でつぶしてしまうにはあまりに大規模になってしまったデモに手を焼いているようだった。そして、反体制勢力は、毎週金曜恒例の昼の集団礼拝を基点に、タハリールで最大規模のデモを組織すると発表していた。
きっと、何か恐ろしいことが起こる、そんな予感がしていた。
28日朝。起きたらインターネットが使えなくなっていた。それからすぐに、契約会社が違う携帯電話間、都市間の携帯通話が通じなくなり、さらに1時間ほどして携帯も完全に通じなくなった。これ以上のデモの拡大を恐れた政府が、根元からコミュニケーションを断ったのだ。
これには参った。だって、自宅の固定電話は、2年前に大家と契約したときに国際通話できるようにお願いして、面倒くさがれてそのままになっていたから。つまり、日本や外国からの電話を受けることはできても、こちらからかけることができない。すでに事態が深刻になってきていたので、東京の本部とは家族や契約で来てもらっている専門家の退避を検討しはじめていたし、心配しているだろう実家や友人にも電話したかったから、こんなふうにコミュニケーションを断たれると、ぐうの音もでない。Twitterやfacebookなどネットが使えないとなると、外界で起こっている出来事を知るには、アルジャジーラ、CNN、BBCなどテレビ報道に頼るしかない。
これから先の展開は、みなさんもご存知のとおり。ナイル川の西岸から、10月6日橋とKasr El Nil橋(通称ライオン橋)を渡ってタハリールへ進行するデモ隊と、行かせまいとして催涙弾やゴム弾、ときには実弾まで使って攻撃の手を休めない治安部隊が一進一退の攻防を延々続けているかと思っていたら、夕暮れ前に突然治安部隊の守りが崩れて、デモ隊が大挙してタハリール広場へとおしかける。日が暮れたときには警官は人っ子一人いなくなり、与党国民民主党本部ビルが何者かによって燃やされ、だれかれとなく勝手に中に押し入って盗みを働く。延焼を恐れるお隣の考古学博物館では、数千年前の貴重な遺物が破壊されるという、ちょっと普通の神経ではできない悪事があれよあれよと繰り広げられ、カイロの街は一気に無秩序へと突進していった。
その統治システムの空隙を埋めるように通りに現れた戦車、また戦車。そして、僕ら日本人が目を疑ったのは、軍の登場を待ち焦がれた恋人がやってきたかのように大喜びする市民の姿だった。
「え、軍って、ふつう、こういうとき、権力にはむかう市民に銃口を向ける存在じゃあないの?天安門って、歴史の時間に勉強したでしょ?」
テレビの解説によると、73年の第四次中東戦争での勇敢な戦闘や、「一度も自国民に銃を向けたことのない」清廉潔白なイメージから、エジプト軍は国民の絶大な信頼を得ているのだという。軍というものに対して自分がもっていた狭い固定観念を改めることになったこと。これが今回の革命を通して僕が一番強い印象をもったことのひとつだ。
この夜遅く、ムバラクは、市民の要求を聞き入れ改革を進めるとして、30年間の統治で初めて副大統領を任命したが、これがまったく手ぬるい措置であったことは、後の歴史が証明している。
こうして街から警察機能が消滅し、与党庁舎が燃え盛り、通りには銃声や若い男たちの奇声が鳴り響く夜、こんなひどい夜に、日本での休暇を終えたボスが来日公演を終えたEftekasatのメンバー3人とともにカイロ空港に降り立った。事務所のドライバーさんには大変過酷な仕事をお願いしてしまったが、カイロの街ことを知り尽くしている彼は、真夜中までかけて南のマーディ、西のドッキ、アグーザで一人一人降ろして、自分も無事帰宅してくれた。4人とも、成田を出てから10数時間のうちに、ムキダシの暴力に怯えるまったく違う次元に行ってしまったカイロを、呆然と眺めたことだろう。
翌29日。まずはボスに会わないといけない。しかし、ボスからの電話は鳴らない。なにかがおかしいと思って、ドライバーに来てもらって、ボスの家を向かう。歩いて3分のTE DATAというADSLのオフィスの窓ガラスが、こなごなに破壊され、アラブ連盟通りに面したCIB銀行を強盗が荒らし、その隣のサウジアラビア航空のオフィスが炎上していた。後に逮捕される与党の領袖Ahmed Ezzの会社ビルからも火が出た。信号のないカイロで交通整理になくてはならない交通警察の姿も一人もみかけない。日々どうしようもない渋滞でおそろしいノイズをあげる街から、音が消えていた。
ボスの家に着いて、ベルを鳴らす。固定電話は休暇に入る前から壊れていたらしい。電話も携帯もインターネットも一緒にやってきたような途上国では、新しい技術が先に市民権を独占してしまうから、昔のものが残らないとはよく聞くが、こんな形で見捨てられた固定電話から仕返しをくらうとは思ってもみなかった。ボスの家も僕の家も、東京からの連絡を待つしかない、なんとも頼りない仮事務所にしかなりえないのだ。
それでも、くじけてはいられない。こうなってはもはや、タハリールにあまりにも近いところにオフィスをもったわれわれが復帰できるのはずっと先のことになるだろう。いまはとにかく、自分の家を仮事務所にして、スタッフの安全確認や東京との連絡、お金の計算、予定されている事業のキャンセルなどの手続きを、できるところからやっていかないといけない。そう思って、実におっかなびっくりだが、僕とボスは、そのままタハリールへと車を走らせた。ライオン橋にさしかかると、左前方に、まだ赤い火が舌を伸ばし、全身黒焦げになった国民民主党ビルが目に飛び込んできた。
タハリールの裏手にある米英大使館は、いつも以上の強固な警備下におかれ、毎日通過している道は遮断されていたので、いつもより大きく迂回しつつ、車は南側からタハリールへ接近するが、Kasr El Nilは完全に通行止めになっていたため、車を降りて、軍人さんの間を身を小さくしながら歩いていった。
TE DATAと同様、徹底的にかきまわされたなにかのオフィスの窓に目が留まった。銃弾が貫通した穴が開いている!前方には、燃やされた警察のトラック。そのさらに先は、何台もの戦車がタハリールの入り口をふさいでいる。事務所の入っているビルの警備のおじさんたちは、途方に暮れた不安顔で、僕らを迎えてくれる。いつものように元気に朝の挨拶を返してはくれない。陽気さを失ったエジプトは、気の抜けたビールみたいだ。
こうしてオフィスにたどりつき、自宅を事務所にするために必要と思われるものを持ち出して、帰宅。ボスも一人暮らしで満足な食事もできないだろうし、夜まで電話とテレビで情報収集しながら対策をたてる必要もあるから、数日拙宅で寝泊りしてもらうことにした。テレビがいつもと違う殺伐としたカイロの街を写し、子どもたちが「これ、ほんとうにおきていることなの?」と不安がるなか、ボスが数日とはいえ一緒にいてくれて賑やかになったのは、救いだった。
こうして、欠陥だらけの仮緊急対策本部を舞台に、僕らは僕らなりの革命を体験していった。夕方には、お向かいさんが顔を出してくれて、家の外は界隈の男たちが包丁やらナタをもって夜通し警備にあたっているから安心しろと言ってくれた。安心してドアをしめてから、ボスと僕は、
「あれって、もしかして自警団へのお誘いだったのかな?」
「うーん、日本は平和国家だから、非武装で、ここから見守ろう。」
などと阿呆なことを言って笑った。
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