えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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【1月28日(金)~1月29日(土)】
1月28日。この日を境に、革命は後戻りできない地点を通過した。
25日のタハリール広場でのデモ隊と警官隊とのすさまじい衝突を目撃した後、1月26、27日と僕はデモ隊が出かける準備をしているであろう午前中だけと決め込んでオフィスへ出かけ、東京との最低限の連絡や自宅に持ち帰る仕事の整理などを済ませてから、お昼過ぎには自宅に帰って、テレビでデモの状況をおいかけていた。25日に見た凄惨なバトルがさらにエスカレートして、たくさんの死傷者が出ていた。政権側もこれまでのように力でつぶしてしまうにはあまりに大規模になってしまったデモに手を焼いているようだった。そして、反体制勢力は、毎週金曜恒例の昼の集団礼拝を基点に、タハリールで最大規模のデモを組織すると発表していた。
きっと、何か恐ろしいことが起こる、そんな予感がしていた。
28日朝。起きたらインターネットが使えなくなっていた。それからすぐに、契約会社が違う携帯電話間、都市間の携帯通話が通じなくなり、さらに1時間ほどして携帯も完全に通じなくなった。これ以上のデモの拡大を恐れた政府が、根元からコミュニケーションを断ったのだ。
これには参った。だって、自宅の固定電話は、2年前に大家と契約したときに国際通話できるようにお願いして、面倒くさがれてそのままになっていたから。つまり、日本や外国からの電話を受けることはできても、こちらからかけることができない。すでに事態が深刻になってきていたので、東京の本部とは家族や契約で来てもらっている専門家の退避を検討しはじめていたし、心配しているだろう実家や友人にも電話したかったから、こんなふうにコミュニケーションを断たれると、ぐうの音もでない。Twitterやfacebookなどネットが使えないとなると、外界で起こっている出来事を知るには、アルジャジーラ、CNN、BBCなどテレビ報道に頼るしかない。
これから先の展開は、みなさんもご存知のとおり。ナイル川の西岸から、10月6日橋とKasr El Nil橋(通称ライオン橋)を渡ってタハリールへ進行するデモ隊と、行かせまいとして催涙弾やゴム弾、ときには実弾まで使って攻撃の手を休めない治安部隊が一進一退の攻防を延々続けているかと思っていたら、夕暮れ前に突然治安部隊の守りが崩れて、デモ隊が大挙してタハリール広場へとおしかける。日が暮れたときには警官は人っ子一人いなくなり、与党国民民主党本部ビルが何者かによって燃やされ、だれかれとなく勝手に中に押し入って盗みを働く。延焼を恐れるお隣の考古学博物館では、数千年前の貴重な遺物が破壊されるという、ちょっと普通の神経ではできない悪事があれよあれよと繰り広げられ、カイロの街は一気に無秩序へと突進していった。
その統治システムの空隙を埋めるように通りに現れた戦車、また戦車。そして、僕ら日本人が目を疑ったのは、軍の登場を待ち焦がれた恋人がやってきたかのように大喜びする市民の姿だった。
「え、軍って、ふつう、こういうとき、権力にはむかう市民に銃口を向ける存在じゃあないの?天安門って、歴史の時間に勉強したでしょ?」
テレビの解説によると、73年の第四次中東戦争での勇敢な戦闘や、「一度も自国民に銃を向けたことのない」清廉潔白なイメージから、エジプト軍は国民の絶大な信頼を得ているのだという。軍というものに対して自分がもっていた狭い固定観念を改めることになったこと。これが今回の革命を通して僕が一番強い印象をもったことのひとつだ。
この夜遅く、ムバラクは、市民の要求を聞き入れ改革を進めるとして、30年間の統治で初めて副大統領を任命したが、これがまったく手ぬるい措置であったことは、後の歴史が証明している。
こうして街から警察機能が消滅し、与党庁舎が燃え盛り、通りには銃声や若い男たちの奇声が鳴り響く夜、こんなひどい夜に、日本での休暇を終えたボスが来日公演を終えたEftekasatのメンバー3人とともにカイロ空港に降り立った。事務所のドライバーさんには大変過酷な仕事をお願いしてしまったが、カイロの街ことを知り尽くしている彼は、真夜中までかけて南のマーディ、西のドッキ、アグーザで一人一人降ろして、自分も無事帰宅してくれた。4人とも、成田を出てから10数時間のうちに、ムキダシの暴力に怯えるまったく違う次元に行ってしまったカイロを、呆然と眺めたことだろう。
翌29日。まずはボスに会わないといけない。しかし、ボスからの電話は鳴らない。なにかがおかしいと思って、ドライバーに来てもらって、ボスの家を向かう。歩いて3分のTE DATAというADSLのオフィスの窓ガラスが、こなごなに破壊され、アラブ連盟通りに面したCIB銀行を強盗が荒らし、その隣のサウジアラビア航空のオフィスが炎上していた。後に逮捕される与党の領袖Ahmed Ezzの会社ビルからも火が出た。信号のないカイロで交通整理になくてはならない交通警察の姿も一人もみかけない。日々どうしようもない渋滞でおそろしいノイズをあげる街から、音が消えていた。
ボスの家に着いて、ベルを鳴らす。固定電話は休暇に入る前から壊れていたらしい。電話も携帯もインターネットも一緒にやってきたような途上国では、新しい技術が先に市民権を独占してしまうから、昔のものが残らないとはよく聞くが、こんな形で見捨てられた固定電話から仕返しをくらうとは思ってもみなかった。ボスの家も僕の家も、東京からの連絡を待つしかない、なんとも頼りない仮事務所にしかなりえないのだ。
それでも、くじけてはいられない。こうなってはもはや、タハリールにあまりにも近いところにオフィスをもったわれわれが復帰できるのはずっと先のことになるだろう。いまはとにかく、自分の家を仮事務所にして、スタッフの安全確認や東京との連絡、お金の計算、予定されている事業のキャンセルなどの手続きを、できるところからやっていかないといけない。そう思って、実におっかなびっくりだが、僕とボスは、そのままタハリールへと車を走らせた。ライオン橋にさしかかると、左前方に、まだ赤い火が舌を伸ばし、全身黒焦げになった国民民主党ビルが目に飛び込んできた。
タハリールの裏手にある米英大使館は、いつも以上の強固な警備下におかれ、毎日通過している道は遮断されていたので、いつもより大きく迂回しつつ、車は南側からタハリールへ接近するが、Kasr El Nilは完全に通行止めになっていたため、車を降りて、軍人さんの間を身を小さくしながら歩いていった。
TE DATAと同様、徹底的にかきまわされたなにかのオフィスの窓に目が留まった。銃弾が貫通した穴が開いている!前方には、燃やされた警察のトラック。そのさらに先は、何台もの戦車がタハリールの入り口をふさいでいる。事務所の入っているビルの警備のおじさんたちは、途方に暮れた不安顔で、僕らを迎えてくれる。いつものように元気に朝の挨拶を返してはくれない。陽気さを失ったエジプトは、気の抜けたビールみたいだ。
こうしてオフィスにたどりつき、自宅を事務所にするために必要と思われるものを持ち出して、帰宅。ボスも一人暮らしで満足な食事もできないだろうし、夜まで電話とテレビで情報収集しながら対策をたてる必要もあるから、数日拙宅で寝泊りしてもらうことにした。テレビがいつもと違う殺伐としたカイロの街を写し、子どもたちが「これ、ほんとうにおきていることなの?」と不安がるなか、ボスが数日とはいえ一緒にいてくれて賑やかになったのは、救いだった。
こうして、欠陥だらけの仮緊急対策本部を舞台に、僕らは僕らなりの革命を体験していった。夕方には、お向かいさんが顔を出してくれて、家の外は界隈の男たちが包丁やらナタをもって夜通し警備にあたっているから安心しろと言ってくれた。安心してドアをしめてから、ボスと僕は、
「あれって、もしかして自警団へのお誘いだったのかな?」
「うーん、日本は平和国家だから、非武装で、ここから見守ろう。」
などと阿呆なことを言って笑った。
1月28日。この日を境に、革命は後戻りできない地点を通過した。
25日のタハリール広場でのデモ隊と警官隊とのすさまじい衝突を目撃した後、1月26、27日と僕はデモ隊が出かける準備をしているであろう午前中だけと決め込んでオフィスへ出かけ、東京との最低限の連絡や自宅に持ち帰る仕事の整理などを済ませてから、お昼過ぎには自宅に帰って、テレビでデモの状況をおいかけていた。25日に見た凄惨なバトルがさらにエスカレートして、たくさんの死傷者が出ていた。政権側もこれまでのように力でつぶしてしまうにはあまりに大規模になってしまったデモに手を焼いているようだった。そして、反体制勢力は、毎週金曜恒例の昼の集団礼拝を基点に、タハリールで最大規模のデモを組織すると発表していた。
きっと、何か恐ろしいことが起こる、そんな予感がしていた。
28日朝。起きたらインターネットが使えなくなっていた。それからすぐに、契約会社が違う携帯電話間、都市間の携帯通話が通じなくなり、さらに1時間ほどして携帯も完全に通じなくなった。これ以上のデモの拡大を恐れた政府が、根元からコミュニケーションを断ったのだ。
これには参った。だって、自宅の固定電話は、2年前に大家と契約したときに国際通話できるようにお願いして、面倒くさがれてそのままになっていたから。つまり、日本や外国からの電話を受けることはできても、こちらからかけることができない。すでに事態が深刻になってきていたので、東京の本部とは家族や契約で来てもらっている専門家の退避を検討しはじめていたし、心配しているだろう実家や友人にも電話したかったから、こんなふうにコミュニケーションを断たれると、ぐうの音もでない。Twitterやfacebookなどネットが使えないとなると、外界で起こっている出来事を知るには、アルジャジーラ、CNN、BBCなどテレビ報道に頼るしかない。
これから先の展開は、みなさんもご存知のとおり。ナイル川の西岸から、10月6日橋とKasr El Nil橋(通称ライオン橋)を渡ってタハリールへ進行するデモ隊と、行かせまいとして催涙弾やゴム弾、ときには実弾まで使って攻撃の手を休めない治安部隊が一進一退の攻防を延々続けているかと思っていたら、夕暮れ前に突然治安部隊の守りが崩れて、デモ隊が大挙してタハリール広場へとおしかける。日が暮れたときには警官は人っ子一人いなくなり、与党国民民主党本部ビルが何者かによって燃やされ、だれかれとなく勝手に中に押し入って盗みを働く。延焼を恐れるお隣の考古学博物館では、数千年前の貴重な遺物が破壊されるという、ちょっと普通の神経ではできない悪事があれよあれよと繰り広げられ、カイロの街は一気に無秩序へと突進していった。
その統治システムの空隙を埋めるように通りに現れた戦車、また戦車。そして、僕ら日本人が目を疑ったのは、軍の登場を待ち焦がれた恋人がやってきたかのように大喜びする市民の姿だった。
「え、軍って、ふつう、こういうとき、権力にはむかう市民に銃口を向ける存在じゃあないの?天安門って、歴史の時間に勉強したでしょ?」
テレビの解説によると、73年の第四次中東戦争での勇敢な戦闘や、「一度も自国民に銃を向けたことのない」清廉潔白なイメージから、エジプト軍は国民の絶大な信頼を得ているのだという。軍というものに対して自分がもっていた狭い固定観念を改めることになったこと。これが今回の革命を通して僕が一番強い印象をもったことのひとつだ。
この夜遅く、ムバラクは、市民の要求を聞き入れ改革を進めるとして、30年間の統治で初めて副大統領を任命したが、これがまったく手ぬるい措置であったことは、後の歴史が証明している。
こうして街から警察機能が消滅し、与党庁舎が燃え盛り、通りには銃声や若い男たちの奇声が鳴り響く夜、こんなひどい夜に、日本での休暇を終えたボスが来日公演を終えたEftekasatのメンバー3人とともにカイロ空港に降り立った。事務所のドライバーさんには大変過酷な仕事をお願いしてしまったが、カイロの街ことを知り尽くしている彼は、真夜中までかけて南のマーディ、西のドッキ、アグーザで一人一人降ろして、自分も無事帰宅してくれた。4人とも、成田を出てから10数時間のうちに、ムキダシの暴力に怯えるまったく違う次元に行ってしまったカイロを、呆然と眺めたことだろう。
翌29日。まずはボスに会わないといけない。しかし、ボスからの電話は鳴らない。なにかがおかしいと思って、ドライバーに来てもらって、ボスの家を向かう。歩いて3分のTE DATAというADSLのオフィスの窓ガラスが、こなごなに破壊され、アラブ連盟通りに面したCIB銀行を強盗が荒らし、その隣のサウジアラビア航空のオフィスが炎上していた。後に逮捕される与党の領袖Ahmed Ezzの会社ビルからも火が出た。信号のないカイロで交通整理になくてはならない交通警察の姿も一人もみかけない。日々どうしようもない渋滞でおそろしいノイズをあげる街から、音が消えていた。
ボスの家に着いて、ベルを鳴らす。固定電話は休暇に入る前から壊れていたらしい。電話も携帯もインターネットも一緒にやってきたような途上国では、新しい技術が先に市民権を独占してしまうから、昔のものが残らないとはよく聞くが、こんな形で見捨てられた固定電話から仕返しをくらうとは思ってもみなかった。ボスの家も僕の家も、東京からの連絡を待つしかない、なんとも頼りない仮事務所にしかなりえないのだ。
それでも、くじけてはいられない。こうなってはもはや、タハリールにあまりにも近いところにオフィスをもったわれわれが復帰できるのはずっと先のことになるだろう。いまはとにかく、自分の家を仮事務所にして、スタッフの安全確認や東京との連絡、お金の計算、予定されている事業のキャンセルなどの手続きを、できるところからやっていかないといけない。そう思って、実におっかなびっくりだが、僕とボスは、そのままタハリールへと車を走らせた。ライオン橋にさしかかると、左前方に、まだ赤い火が舌を伸ばし、全身黒焦げになった国民民主党ビルが目に飛び込んできた。
タハリールの裏手にある米英大使館は、いつも以上の強固な警備下におかれ、毎日通過している道は遮断されていたので、いつもより大きく迂回しつつ、車は南側からタハリールへ接近するが、Kasr El Nilは完全に通行止めになっていたため、車を降りて、軍人さんの間を身を小さくしながら歩いていった。
TE DATAと同様、徹底的にかきまわされたなにかのオフィスの窓に目が留まった。銃弾が貫通した穴が開いている!前方には、燃やされた警察のトラック。そのさらに先は、何台もの戦車がタハリールの入り口をふさいでいる。事務所の入っているビルの警備のおじさんたちは、途方に暮れた不安顔で、僕らを迎えてくれる。いつものように元気に朝の挨拶を返してはくれない。陽気さを失ったエジプトは、気の抜けたビールみたいだ。
こうしてオフィスにたどりつき、自宅を事務所にするために必要と思われるものを持ち出して、帰宅。ボスも一人暮らしで満足な食事もできないだろうし、夜まで電話とテレビで情報収集しながら対策をたてる必要もあるから、数日拙宅で寝泊りしてもらうことにした。テレビがいつもと違う殺伐としたカイロの街を写し、子どもたちが「これ、ほんとうにおきていることなの?」と不安がるなか、ボスが数日とはいえ一緒にいてくれて賑やかになったのは、救いだった。
こうして、欠陥だらけの仮緊急対策本部を舞台に、僕らは僕らなりの革命を体験していった。夕方には、お向かいさんが顔を出してくれて、家の外は界隈の男たちが包丁やらナタをもって夜通し警備にあたっているから安心しろと言ってくれた。安心してドアをしめてから、ボスと僕は、
「あれって、もしかして自警団へのお誘いだったのかな?」
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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。
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