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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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金・土とナスルシティの体育館で行われたスピードボール世界選手権。
土曜日は別の仕事が入ったので、金曜日のみ、家族と一緒に応援に出かけた。

エジプトが産んだスポーツというだけあって、エジプト人選手の強さは圧倒的だった。
一人1分×4本でヒモでポールに結び付けられたボールを何回ヒットできるかを競うゲームをやっていたのだが、他の選手が1回打つ間に、エジプト人は2回打っているくらいのすさまじいレベル差があった。

一緒に見ていた妻が、エジプトの選手だけ、違うヒモがついているかと思った、というほどに、力強いショットによってまったく緩むことなく跳ね返ってくるボールを、ほとんどポジションを変えることなく打ち続ける。スタミナも、他国が少しずつ落ちていくなか、エジプト人だけは同じペースを守り続ける。

まだまだ参加国も10数カ国という小規模なれど、エジプトが世界のリーダーでいられる数少ないスポーツだから、少なくとも国内でもっとプロモーションがあればいいのに。会場の応援客のあまりの少なさにがっかりだ。

昨日応援に行った大使館の方によると、最終的に日本は3位だったそうだ。大健闘だったが、エジプトに次ぐ天敵フランスには勝てなかったようだ。

来年の世界大会は日本で開催されるという。またエジプトの破壊力が見せつけられるだろうし、そのカッコイイ エジプト人を見たお客さんがエジプトに対してちょっと違う見方をしてくれたら面白いとも思う。もちろん、日本にもがんばってもらって、少なくともフランスを破ってもらいたい。
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10月16日金曜日。
永井豪さんをカイロに迎えて2回の講演をしていただいた翌日。
日本人学校のグラウンドで、毎年恒例の日本人会秋祭りが催された。

去年はぎりぎりまで行かないつもりでいたところを、赤ちゃん会の知人から「子どもたちが喜ぶから」と誘ってもらったくらい引っ込み思案だったが、今年は子どもも自分も舞台に上がってしまう方向転換ぶり。

子どもたちは「ポニョ」を大合唱。
そして自分は、アラブ音楽を歌うビラーディーの会の一員として、おもに伴奏を務めた。

早めに会場入りして、舞台上でリハーサル。持ち時間10分で歌う2曲は、70年代に世界的にヒットしたダリダのSalma Ya Salamaと、「キング」アムル・ディアブのSadakny Khalas。

http://www.youtube.com/watch?v=azyIOqB1bfQ
http://www.youtube.com/watch?v=bnkqqjDPNHQ

なかなかな手ごたえを感じて舞台を降りたら、次のグループは上エジプトの典型的なリズムにあわせてガラベイヤを着て踊るサイーディーダンス。ご夫人たちが和服を着てタブラを叩くという、前代未聞の演出に驚かされた。そして、その次のグループ。どうもたたずまいがタダモノではない。ウードをもったお兄さん1名、タブラのお兄さん2名、そしてバイオリンのお姉さん1名の編成が奏でだしたアラブ音楽のレベルの高いこと、高いこと!!この人たちって、どのくらい練習してこんなことできるようになるの???と、目が点になってしまった。バイオリンのお姉さん以外は、どうもアラブ音楽の勉強のためにこちらにいらしているらしいが、そうだとしても、ここまでやるとはスゴイ!

本番もこうして、日本人によるアラブの歌と踊り満載で、ステージ前には興奮したエジプト人たちが群がり、大喝采を送ってくれた。日本人会のお祭りがこんなふうにエジプト人と日本人が心を通わす場になって、参加したみんなが嬉しそうだった。

お祭りが終わっても、ビラーディーの会は続く。そして、1年以上続いたタブラ教室も、さらに深化をみせようとしている。28日は6:30からビラーディーの会で、
Dhahaba El Leelという子どもの歌とキングのAktar Wahedの二曲を練習し、僕は8時に中座してタブラ教室へ。こちらでは、Wardaという女性歌手のクラシック、Fi Youm Wa Leelaのイントロに挑戦。


お聞きのとおり、1曲のなかで次から次へと違うテーマが出てきて、リズムもそれにあわせて変化していくのだが、先生曰く、これこそがアラブ音楽の醍醐味。こういうクラシックの名曲に比べると、「キング」アムル・ディアブの音楽などは、同じリズムの単調な繰り返しで芸術性があまりに乏しいのだそうだ。

雑食系の僕としては、アムル・ディアブのフラメンコの哀愁を織り交ぜてストレートな愛を歌い上げるスタイルも多いに楽しめるのだけれど、確かに、こうして多彩なリズム展開を自分で叩いてみると、古典の味わい深さに軍配が上がる。僕らはイントロを叩いただけで息が上がってしまうのだけれど、プロの方々は、この後でスター歌手が登場して、本番が始まるわけですねぇ。

タブラ教室のほうは、次回以降、新しいCDをもらって、さらにバラエティに富んだ楽曲にチャレンジしていく予定。来年のお祭りでは、もう少し成長した演奏を披露できるか?




スピードボールというスポーツをご存知だろうか?
僕は、本社のほうから電報をもらって、はじめてその存在を知った。

1961年に、エジプトのモハメッド・ロトフィ氏によって考案されたラケット競技だとあり、エジプト発というのが「おっ」と思わせる。

その世界大会がカイロで開催され、全日本チームが来るというので、彼らに会いに出かけてきた。
というのも、大会のほかに、カイロの学校や施設を訪問して普及・交流活動を行われるというので、そこに本社が助成をしているという経緯があってのことである。

滞在先のホテルに行くと、10代から20代前半くらいまでの若くて初々しい青年たちが背中にJAPANと刺繍されたジャージを着て集まっていた。

少しして、創始者ロトフィ氏の息子さんで国際連盟の会長であるロトフィさんも登場し、僕らはリハーブという地区にあるブリティッシュ・スクールへと出かけた。

待ち受けたいたのは、英国人の校長先生、教頭先生だったが、生徒のほとんどはエジプト人。全日本の選手の模範演技のあとは、こどもたちが入れ替わり立ち代り、ラケットをもってプレーを楽しんでいた。

エジプト発祥のスポーツで、現在もエジプトが世界一強いとなってみれば、エジプトの選手がこうした学校訪問をすればいいのにとも思うが、それほどエジプト人のなかで浸透していないこの競技に日本人がとりくんでいて、エジプト人が生みの親だということをアナウンスしながらデモンストレーションするというのは、彼ら子供たちにとっても、自尊心を刺激してやる気にさせる効果があるだろうと思った。

それにしても、はじめて訪ねたリハーブ地区の豪華さにはたまげた。カイロ郊外に、こんなにもキレイに整備された高級住宅街があるなんて。コロニーの入り口には、住人とゲストに分けてチェックポイントが築かれ、さながらイスラエルを思わせるセキュリティ体制。新築の住宅群のはざまには、高級モールが立ち並び、ファーストフードレストランがあちこちで営業している(なぜか途上国では全般的にマックだとかKFCが高級志向なのである)。ここのブリティッシュスクールで英語ミディアムでお勉強するご子弟も、それはそれはリッチなファミリーの一員なのであろう。お育ちの良さが滲みでていた。

キレイに刈り込まれた芝のグラウンドで、僕も森会長に誘われて、はじめてスピードボールのラケットを握った。空振りに空振りを重ね、子供たちの笑いを独占してしまった。

明日は障害者施設訪問、そして金曜と土曜の午後、Nasr City Clubのアリーナで、世界大会が開催される。
いろいろと書きたいこともあるにせよ、公務の旅行であり、個人が特定されると迷惑にならないとも限らないので、断片的なエピソードと一般的感想だけ書いておくことにします。

二日目の朝。起きて窓から外を見たら、青く美しい地中海のビーチが広がっていた。なんて、美しい!
街を歩いても、緑がいっぱいあって、道にはゴミも落ちてなくて、公園や美術館など公共の施設もばっちりと整備されていて、なにもかもが美しい街だ。

憎しみと流血にまみれた土地というイメージをもっていったら、その影すら認めることが難しくて、なんだか拍子抜けしてしまう。

(いよいよ、イスラエル人と会うぞ!)
となぜか、肩に力が入ってしまっていたが、美術館、シアターなど芸術関係者、そして大学の日本語や日本研究にかかわる先生方、みんなやさしくて魅力的な人たちで、そして、日本と日本人のことが大好きだった。学生をはじめとした若者の間では、日本のマンガやアニメが爆発的人気になっているという。新聞や雑誌で確認したら、映画館では『トウキョウソナタ』が商業上映されていたし、聞けば、『崖の上のポニョ』も封切られ、人気だったとのこと。大学の日本研究でも、文学や政治学ではなくって、マンガ、アニメ、映画などのポップカルチャーで論文を書く学生や院生が圧倒的に多いのだそうだ。大学に入る前からの趣味の延長で大学での学問を継続できるのもうらやましいが、そういうサブカル的研究をサポートする教授陣を見ていても、この国がアメリカと地続きであると思った。

三日目は朝から夕方までパレスチナ訪問。といっても、時間の関係で東エルサレムとラマッラしか行けなかったけれど。こちら側も、チェックポイントこそ緊張したが、街の中は短い滞在のなかでは平和そうに見える。小さい男の子たちが、僕の姿を見て、「ジャッキー・チェン」とか「ブルース・リー」とか声をかけてくるのも、エジプトと同じだ。ただ、イスラエルと違って、街は全体に緑少なく、オシャレなお店やモールのようなものも見当たらない。そして、自分たちのことを語り合う芸術空間~ギャラリー、シアター、映画館~がわずかしか存在しない。

ラマッラで唯一、プライベートのシアターとシネマテークとして人々が集うアルカサバ・シアターの芸術監督、ジョージ・イブラヒムさんを訪ね、パレスチナの文化・芸術状況についてお話を伺った。ジョージ氏曰く、占領政策が苛烈を極めるにつれて、行き詰ったパレスチナの若者たちが宗教的過激主義に流れていって、それが占領統治をさらに厳しくするという悪循環に陥っている。その連鎖を断ち切るためにも、有為な若者たちが集い、自分たちの文化を創出していく場所が必要で、アルカサバはそういう場所として精力的に活動を行っている。ここ数年で、シアター内の施設を使って、3年間で学位をとる演劇学校を作り、1年生12名が学んでいる。ゆくゆくは、演劇だけでなく、映画や美術なども含んだ総合的芸術アカデミーにしていきたい。

こんなことを、彼がいつも唱えるキーワード、"Culture is the only weapon(文化が唯一の武器である)"を交えて、語ってくださった。いまは60代になる彼にとって、若い頃は、文化や芸術を志そうと思っても、パレスチナで手に入るものはなにもなく、独力で道を切り開いていったのだという。そして、非対称的になんでも得られるイスラエルが隣から自分たちの首ねっこをつかんでいるという不公正な状況に対して憤りながら、同時に、自分の後進の若者たちには自分が得られなかった機会へのアクセスを提供するために汗をかいている。そうやって茨の道を歩んできた人だからこそ持ちうる「力」が、彼の言葉にはあった。パレスチナの若者が自らの力で立ち、独自の文化を立ち上げながら将来の国づくりをしていくために、日本が微力ながらできることがあるはずで、それをこれから考えていくことを約束して、僕らはアルカサバを後にした。おみやげにジョージさんがくれたのは、昨年亡くなったパレスチナの詩人、マハムード・ダルウィーシュの追悼朗読会を収めたCD/DVDだった。

夕刻までにはイスラエル側に戻ってきた。物質的にも文化的にも豊かな資源にあふれた楽園に戻ってきて、安堵しなかったといえば、ウソになる。テルアビブ市内のDiesendof Center Mall内のCD屋と本屋さんに立ち寄り、映画のDVD4枚と最近はやりの音楽CD3枚、そして、TEL AVIV SHORT STORIESという短編小説集を買った。ホテルへの道すがら、ワインショップで、YARDENという一番人気の銘柄を1本、死海の塩を使った石鹸グッズ専門店で、死海泥石鹸を購入。YARDENは占領したシリア領ゴラン高原産、死海だって西岸の地にあって、どちらの商品も、占領のタマモノだった。

出会ったイスラエル人のなかから、カイロに対する憧れに似た思いが寄せられたのも印象的だった。何人かの人は過去にエジプトを訪れたこともあると言っていたけれど、エジプトがイスラエルとの文化や人の交流の正常化に反対している環境では、怖くて旅行になんか行けないということを、ほとんどの人たちが言っていた。ある文化センターのマネージャーは、僕がカイロから来たと言ったら、自分の父はカイロ、母はアレキサンドリア出身だが、自分自身はイスラエル生まれで一度もエジプトに行ったことがないと話してくれた。イスラエル建国とともにアラブ諸国から追い出されるようにしてイスラエルに移住した人たちの子孫というわけだ。中東で隣り合うこの二つの国が仲良くなれば、その文化的・経済的・政治的なポジティブな影響力ははかりしれないのだが、道はまだまだ通そうだ。

帰国便は、夜中の00:40発。でも、空港はカイロ以上に厳しいセキュリティで行列が出来ていて、思いのほか時間がかかる。カイロでも受けたのと同じような質問をいっぱい投げかけられ、しまいには「兵器は持っていますか?」なんていう、あまりにもストレートな質問まで飛び出す。そんな質問にイエスと答える人はいないだろうが、顔色の変化を見ているのだろうか。

3泊5日の強行軍では何も見なかったに等しいけれど、想像した以上に紛争や対立の構造が具体的なシチュエーションとしては見えてこない。おそらくは、そういう権力や文化の非対称な関係を隠蔽してしまうシステムが強力に作動していて、僕らヨソモノには何も見えなくされているのだろう。そのツルっとしたとらえどころのなさこそが問題だということを、きっと忘れてはいけないのだろう。出国は、真っ白いパスポート、エジプトへの入国は真っ黒い方に押してもらって、一応、滞りなく帰ってきた。家に着いたら、夜中の3時になっていた。
カイロに来て1年10ヶ月。いつか行ってみたいと思っていたイスラエル・パレスチナに行ってきた。
といっても、私的旅行というわけにはいかない。公用旅券をもって仕事でエジプトに来ている身としては、このパスポートにイスラエルの出入国スタンプが押されたが最後、エジプト・ヨルダン・トルコを除く中東の国で受け入れてもらえなくなってしまう。

なので、正式にイスラエルにある日本大使館に出張を受け入れてもらい、しかも、別途、イスラエル入国のための公用旅券を発行してもらって、出かけた。

使用した飛行機は、EL AL ISRAEL(略してエルアル)という、イスラエルの航空会社。カイロから行ったことのある経験者から聞いたところ、カイロ空港はセキュリティチェックが厳しいから、3時間前には確実に空港に着いていたほうが良いとのこと。忠告に従って早めに出かけたら、確かに、イスラエル行きの乗客専用のチェックインゲートがあって、そこだけで5人くらいの警官がスタンバイしていた。ゲートに荷物を通したら、今度は、ロープを張った4つのチェックインカウンターエリアのなかに、5人くらいのイスラエル人係官がいて、譜面台をおいた4つの島で、一人ずつ、面接(尋問?)を行っている。それが済んだ人は、ION SEARCHとかいうブランド名のついた巨大な荷物検査機で厳重な荷物チェックを受ける。そのあとでようやく、チェックインして搭乗券を受け取ったら、カウンターの脇でエジプト人係官の出国スタンプをもらうことになる。

僕の番になった。
係りの女性が、僕の旅券を手にして、珍しいのが来たという感じで笑いながら、他の4人のスタッフに向かって「オフィーシャル!!」と叫ぶ。僕も、「お手柔らかに」というメッセージを笑顔に託して投げかけた。

係官:イスラエルはどこに行きますか?
僕:大使館と、ヘブライ大学などの学術・文化機関です。
係官:公用ですが、あなたの組織とポジションは?
僕:Japan Foundationのカイロ事務所の次席で、外国との文化交流をやっています。今回の出張もその仕事としてイスラエルの学術・文化関係者と面会します。
係官:あたの荷物を最後にパックしたのは誰ですか?
僕:私です。
係官:その後、誰も荷物に触っていませんか?
僕:触っていません。
係官:ところで、あなたのパスポートには、シリアに行った記録がありますが、これはお仕事ですか?
僕:・・・・・・!!

ま、間違えた。出そうと思って用意していたパスポートは、イスラエル行きのために作った専用パスポートなのに、よりによって、あわてて出してしまったのは、もともともっているほうで、しかも、そこにはイスラエルの敵国、シリアの入国記録があるときた!あー、しまった。

僕:えー、観光ですよ、ハハハ。そうそう、間違えました。本当は、こっちのパスポートを出すべきでした、ヘヘヘ。
係官:まあ、あなたの場合どちらもオフィシャルですから、シリアに行かれたからといって、オリジナルに問題ありというわけではありませんから。
僕:あー、そうですか。ありがとう。
係官:では、あなたについては、荷物検査は不要なので、チェックインカウンターへどうぞ!

ふー、危ない、危ない。こういうときほど、頭のなかでシミュレートしたとおりにやれないんだよね。。。

チェックインを簡単に済ませ、最後の出国手続き。ここでは、イスラエル専用パスポートを自信をもって、差し出した。

係官は、パラパラと真っ白なページをめくりながら、こう言った。
「もうひとつのパスポートを見せて。」
な、なんだよ、こっちに出国スタンプ、押してくれないのかよ??
「もうひとつのって?」
「だから、エジプトのビザがついてるやつだよ。」
「あー、これのこと、ね。ハイ。でも、イスラエル入国だけじゃなくって、エジプト出国も、こっちの白いほうに押してほしいな。」
係官は、もう一人の係官としばらくヒソヒソ話をしていたが、おもむろにスタンプをふりあげ、「もうひとつの」パスポートのほうにバーンとハンコを押してくれた。
「・・・・」
「イスラエルの入国は、そっちの白いほうを出せば大丈夫さ。」

これでいいような気がしつつ、なんだか納得のいかない、幸先のいまいちよくない出国だった。

搭乗ゲート7番付近のカフェには、イスラエル人らしき人々に混じって、ラテン系の陽気な人々がスペイン語で騒いでいた。何の用事で、エジプトとイスラエルを回るのか?キリスト教徒として、聖家族の歩んで道のりをたどるという、神聖なる旅路を歩んでいるのか?それにしては、神妙さのない陽気な騒ぎぶり。これがラテンの力か。


飛行機は1時間ちょっとでテルアビブに着いた。空港は超近代的で、さっそく玄関からしてこの国の経済的・軍事的パワーを思い知らされる。さー、入国だ。今度も「もうひとつのほうに押されたら、これまでの準備が水の泡。始末書もんだ・・・」とおどおどしながら、トイレで緊張をほぐしてから、入国審査へ。スーツのポケットからとりだしたのが、真っ白なほうのパスポートであることを確かめ、やさしそうな雰囲気のお姉さんが座っているカウンターの前に並んだ。

自然体を心がけて白いパスポートを差し出すと、お姉さんは、3秒でスタンプを押してくれた。これで、始末書は書かずにすみそうだ。

空港を出て左に向かうと、オフィシャルなタクシースタンドがある。係りの女性に案内され、きれいなメルセデスのタクシーに乗り込む。夜の市内へのハイウェーは、カイロとは違って、渋滞
することなく、常に120~140キロでぶっとばして、20分でホテルに着いてしまった。

ホテルが近づいてきた頃、運転手さんの携帯がなった。なぜか、彼は携帯を車内のスピーカーシステムにつないでいて、大音量で中年女性の不機嫌な声が鳴り響く。そこではじめて、彼がロシア系であることがわかる。ロシア語の夫婦喧嘩を堪能させてもらったお礼に、下車するときに、「ダズビダーニヤ」と声をかけてみた。さすがに、僕の発音を聞いて、喧嘩の内容を全部知られたとは思わなかったかもしれないが、運転手さんは窓をあけて、名刺を差し出し、「帰りも使ってくれ。」とつぶやいた。

こうして、終わってみればなんということもなく、僕はイスラエルへの入国を果たしたのだった。(つづく)


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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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