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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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3月1日のNY timesの記事は、しょっぱなの写真からインパクト大。
カイロの地下鉄の駅のひとつ、MUBARAK駅の看板が、何者かによって書き換えられている。

"SHAHDAA SAWRET 25"。「1月25日革命殉死者駅」

政府が公式に銘銘したわけではなく、市政の人々が勝手にやったことだが、すでに人々からそういうものとして認知されている。

記事によると、ムバラク独裁政権時代につくられた、ムバラク家の名前を冠する機関の数のすごいこと。学校だけで大統領の名前で388校、奥さんのスーザンの名前で160もある。次男でホスニの後継者と目されていたガマルの名前はさすがにまだ1校しかなかったようだが。

その他の国家機関でもムバラクの名前をどうしようかと思案しているようだが、なにしろ数が多くて手続き的にはそれなりの時間がかかる模様。

まだ案のレベルとしているが、ホスニの名前を関する国立警察学校(Mubarak Police Academy)を、なんと、“Khaled Said Police Academy"に改名しようとするアイデアがあるというから、革命とは本当に180度舵を転換しようとする所作なのだと感心してしまう。Khaled Saidとは、去年6月アレキサンドリアで警察に拷問され死亡した若いネット活動家の名前で、この事件がきっかけとなって、1月25日の革命運動に火がついた。ほんとうにこの名前が実現したら、それって結構、すごいことなんじゃないかな。

ムバラクが退陣したカイロに着地して、街の変化をひととおり眺めたとき、まず認識するのは、市内の各所に掲げられていた肖像写真が一掃されたことだった。革命の実質的成就のためには、まさにいま運動家たちが闘っているように、頂点の一人だけじゃなくてそれを支えたシステムと構成していた人間をこそ一掃しなければならないことはもちろんだが、目に見える形でムバラクの姿と名前がこの国の公共空間から消滅することも、ひとつの重要な証となることだろう。
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3月10日のCNNのネット記事で紹介されているEgyptian Democratic Academyが元気だ。2009年、ムバラク政権時代に設立されたNGOで、秘密警察や与党の非情な暴力に負けず、2010年の議会選挙の不正モニタリングを行った勇敢な若者たちの組織だ。
リンク:"Democracy's Heroes: The Egyptian Democratic Academy", International Republican Instituteウェブサイト

彼らも前線で闘って勝ち取ったムバラク退陣の勝利。そのあとに待っていたもののほうがもっと困難だ、と語る。国民の理解を前提にした民主制度の確立という大課題である。ダウンタウンの隠れ家的施設で主要メンバーが勉強会やミーティングを開き、カイロ内外でタウン・ミーティングを組織して民衆レベルで来るべき選挙を真に民主的に実施できる基盤づくりに奔走している。軍最高評議会や企業に働きかけ、テレビを活用した啓蒙を国民レベルで展開しようとしている。
リンク:"Egyptians Learn Tough Lessons in Democracy", 3月10日CNN News

このEDAのリーダーの一人、Israa Abdelfattahさんは、今回の1月25日革命のなかで主要なリーダーシップをとったグループ、4月6日運動の共同設立者。エジプト革命のジャンヌ・ダルク。1981年生まれの若き女性革命家だ。ムバラクが退陣してまだ間もない頃、ネット記事で革命を主導した女性革命家として紹介されていたのが気になっていたが、なにもこの1月にぽっと出て有名になったわけではなく、もっと前から自由を抑圧し不正で権力を独占する権力に抗議し、そしてムバラクがいなくなった今は、エジプトが真に自由で民主的な国になるための息の長い運動に身を投じているから、筋金入りだ。
リンク:①WIKIPEDIA、②eArabGirls.com

EDAとは別に、エジプトで最大規模の若者動員力をもつ文化センターEL SAWY CULTURE WHEELは、カイロアメリカン大学と共同で、やはり民主主義の学校を開講し、先の日記で書いたように、エルバラダイなど新しい国づくりを担うリーダーやthinkerたちの講義を企画している。

今回の革命運動では、タハリール広場で躍動する女性たちの姿が多く目にとまった。近年、湾岸への出稼ぎ労働者の継続的な保守化の影響などもあって、エジプトのムスリム女性の大部分がスカーフを着用するようになるなど、従属的、ドメスティックな傾向にあるように見えたが、人は外見だけで判断してはいけない。人口の半数以上を占める30歳以下の若者たちが、男女の隔てなく参加して作り上げていく新しい民主国家エジプト。保守反動勢力に対抗する組織や戦術をもって、ぜひ目標を達成してもらいたい。
今朝8時過ぎ、電話で起こされ、はじめて日本の地震のことを知った。身内のことはもちろんだが、あまりにもすさまじい被害の模様を目の当たりにして、ただひたすら、日本のみんなの無事を祈っている。NHKやTBSがUSTREAMで番組を見せてくれるので、カイロにいながらリアルタイムで情報を得ることができる。情報が入れば入るほど心が苦しくなるけど、知らないうちに事態がどんどん進行するのも怖いので、トイレと食事以外はずっとテレビに釘付け。7時間の時差があるので、日本各地で次々に地震に襲われた眠れぬ夜を、気持ちだけは一緒に過ごした。いま、朝を迎え、TBSのヘリコプターが津波に大きく抉られた海岸線の町々を写し出している。あまりのすさまじさに息が苦しくなる。

この間、エジプトの友人、日本語を学ぶ学生、事務所のスタッフやセキュリティから電話やfacebookで次々と家族の安否確認とお見舞いが寄せられた。インドの友人からも勇気づけられるメッセージが届いている。日本人は世界から愛されていると、いつにも増して実感。

特にエジプトの友人たちは、革命もまだ道半ば、治安の不安と闘いながら、ダメージを受けた国の経済や社会システムの再建のために働いている。そういう苦しい時間を生きているからこそ、同じ地平で心からの同情を寄せてくれるのかもしれない。

たくさんの暴徒に襲われて歩みをくじかれたかに見られた革命勢力のデモ活動。今日のタハリール広場は、引き続く暴力を恐れて人々は出てこないだろうと思っていたら、数こそ以前のような数十万という単位とはいかないまでも、タハリール広場と国営テレビ前にたくさんのキリスト教徒(コプト教徒)とムスリムが集結し、Friday of National Unity(国民統一の金曜日)と銘打って、体制やメディアが国民に印象づけようとする「宗教間対立」のイメージを改めさせようと声を上げた。人々の連帯精神が実感できる映像をごらんください(
リンク:Ahram Online "Egypt holds Day of National Unity")。

力を持つ者たちが仕掛ける分断政治に対抗できるのは、人々の連帯だけ。それも狡猾な相手に負けないよう、十分に戦略的でなければならない。がんばれエジプト。がんばれ日本!


ここ数日、革命の反動が目につくようになっていて、革命勢力のデザインしたとおりにここまで進展してきた改革プロセスに微妙な陰がさしているように見えます。

ヘルワンでのキリスト教会の焼き討ち、昨日のムカッタムでの両宗派グループのクラッシュという、異宗教の間に不信と怒りの楔を打ち込む動きがひとつ。

そして、INTERNATIONAL WOMEN'S DAYだった昨日、タハリール広場で女性の台頭な政治的権利を主張するデモを陵辱したくさんの女性に性的ハラスメントを行ったり、今日はタハリールでデモそのものを弾圧してテントを破壊するなど、改革勢力がこれ以上ストリートで政治的活動をすることを押さえ込もうとする動きがひとつ。

改革勢力のツイッターやブログでは、これらのすべてのアクションの裏には国民民主党、国家保安局、財閥勢力などのムバラク体制の元締めたちが策動していると断定する向きが多いですが、真相はわかりません。また、タハリール広場のデモを一掃してしまった今日の暴力について、被害者の証言は軍の兵士も暴徒の側にまわって攻撃をしたと述べているし、昨日の「宗教間対立」の犠牲者の体内から軍の発砲した弾丸が見つかったというコメントも聞かれ、ここまで改革勢力の要求に真摯に耳を傾け政治プロセスを進展させてきた軍の中立性が、また疑問視されているところが気になります。

それだけでなく、長引くデモンストレーションのせいで社会も経済も一向にもとに戻らないという不満が普通の市民の間にも拡大していて、今日こうして広場が暴力的にクリアされたことを多くの人がよきこととして評価する向きも、革命のプロセスに対する社会全体としての反動の兆候として強くなっているように思えます。

ムバラク打倒でひとつになったエジプト国民の意識が、それから1ヶ月たって多様化して、政治プロセスの進展がストリートの意見のクラッシュによって迷走することがないことを期待したいと思います。


【1月28日(金)~1月29日(土)】

1月28日。この日を境に、革命は後戻りできない地点を通過した。

25日のタハリール広場でのデモ隊と警官隊とのすさまじい衝突を目撃した後、1月26、27日と僕はデモ隊が出かける準備をしているであろう午前中だけと決め込んでオフィスへ出かけ、東京との最低限の連絡や自宅に持ち帰る仕事の整理などを済ませてから、お昼過ぎには自宅に帰って、テレビでデモの状況をおいかけていた。25日に見た凄惨なバトルがさらにエスカレートして、たくさんの死傷者が出ていた。政権側もこれまでのように力でつぶしてしまうにはあまりに大規模になってしまったデモに手を焼いているようだった。そして、反体制勢力は、毎週金曜恒例の昼の集団礼拝を基点に、タハリールで最大規模のデモを組織すると発表していた。

きっと、何か恐ろしいことが起こる、そんな予感がしていた。

28日朝。起きたらインターネットが使えなくなっていた。それからすぐに、契約会社が違う携帯電話間、都市間の携帯通話が通じなくなり、さらに1時間ほどして携帯も完全に通じなくなった。これ以上のデモの拡大を恐れた政府が、根元からコミュニケーションを断ったのだ。

これには参った。だって、自宅の固定電話は、2年前に大家と契約したときに国際通話できるようにお願いして、面倒くさがれてそのままになっていたから。つまり、日本や外国からの電話を受けることはできても、こちらからかけることができない。すでに事態が深刻になってきていたので、東京の本部とは家族や契約で来てもらっている専門家の退避を検討しはじめていたし、心配しているだろう実家や友人にも電話したかったから、こんなふうにコミュニケーションを断たれると、ぐうの音もでない。Twitterやfacebookなどネットが使えないとなると、外界で起こっている出来事を知るには、アルジャジーラ、CNN、BBCなどテレビ報道に頼るしかない。

これから先の展開は、みなさんもご存知のとおり。ナイル川の西岸から、10月6日橋とKasr El Nil橋(通称ライオン橋)を渡ってタハリールへ進行するデモ隊と、行かせまいとして催涙弾やゴム弾、ときには実弾まで使って攻撃の手を休めない治安部隊が一進一退の攻防を延々続けているかと思っていたら、夕暮れ前に突然治安部隊の守りが崩れて、デモ隊が大挙してタハリール広場へとおしかける。日が暮れたときには警官は人っ子一人いなくなり、与党国民民主党本部ビルが何者かによって燃やされ、だれかれとなく勝手に中に押し入って盗みを働く。延焼を恐れるお隣の考古学博物館では、数千年前の貴重な遺物が破壊されるという、ちょっと普通の神経ではできない悪事があれよあれよと繰り広げられ、カイロの街は一気に無秩序へと突進していった。

その統治システムの空隙を埋めるように通りに現れた戦車、また戦車。そして、僕ら日本人が目を疑ったのは、軍の登場を待ち焦がれた恋人がやってきたかのように大喜びする市民の姿だった。

「え、軍って、ふつう、こういうとき、権力にはむかう市民に銃口を向ける存在じゃあないの?天安門って、歴史の時間に勉強したでしょ?」

テレビの解説によると、73年の第四次中東戦争での勇敢な戦闘や、「一度も自国民に銃を向けたことのない」清廉潔白なイメージから、エジプト軍は国民の絶大な信頼を得ているのだという。軍というものに対して自分がもっていた狭い固定観念を改めることになったこと。これが今回の革命を通して僕が一番強い印象をもったことのひとつだ。

この夜遅く、ムバラクは、市民の要求を聞き入れ改革を進めるとして、30年間の統治で初めて副大統領を任命したが、これがまったく手ぬるい措置であったことは、後の歴史が証明している。

こうして街から警察機能が消滅し、与党庁舎が燃え盛り、通りには銃声や若い男たちの奇声が鳴り響く夜、こんなひどい夜に、日本での休暇を終えたボスが来日公演を終えたEftekasatのメンバー3人とともにカイロ空港に降り立った。事務所のドライバーさんには大変過酷な仕事をお願いしてしまったが、カイロの街ことを知り尽くしている彼は、真夜中までかけて南のマーディ、西のドッキ、アグーザで一人一人降ろして、自分も無事帰宅してくれた。4人とも、成田を出てから10数時間のうちに、ムキダシの暴力に怯えるまったく違う次元に行ってしまったカイロを、呆然と眺めたことだろう。

翌29日。まずはボスに会わないといけない。しかし、ボスからの電話は鳴らない。なにかがおかしいと思って、ドライバーに来てもらって、ボスの家を向かう。歩いて3分のTE DATAというADSLのオフィスの窓ガラスが、こなごなに破壊され、アラブ連盟通りに面したCIB銀行を強盗が荒らし、その隣のサウジアラビア航空のオフィスが炎上していた。後に逮捕される与党の領袖Ahmed Ezzの会社ビルからも火が出た。信号のないカイロで交通整理になくてはならない交通警察の姿も一人もみかけない。日々どうしようもない渋滞でおそろしいノイズをあげる街から、音が消えていた。

ボスの家に着いて、ベルを鳴らす。固定電話は休暇に入る前から壊れていたらしい。電話も携帯もインターネットも一緒にやってきたような途上国では、新しい技術が先に市民権を独占してしまうから、昔のものが残らないとはよく聞くが、こんな形で見捨てられた固定電話から仕返しをくらうとは思ってもみなかった。ボスの家も僕の家も、東京からの連絡を待つしかない、なんとも頼りない仮事務所にしかなりえないのだ。

それでも、くじけてはいられない。こうなってはもはや、タハリールにあまりにも近いところにオフィスをもったわれわれが復帰できるのはずっと先のことになるだろう。いまはとにかく、自分の家を仮事務所にして、スタッフの安全確認や東京との連絡、お金の計算、予定されている事業のキャンセルなどの手続きを、できるところからやっていかないといけない。そう思って、実におっかなびっくりだが、僕とボスは、そのままタハリールへと車を走らせた。ライオン橋にさしかかると、左前方に、まだ赤い火が舌を伸ばし、全身黒焦げになった国民民主党ビルが目に飛び込んできた。

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タハリールの裏手にある米英大使館は、いつも以上の強固な警備下におかれ、毎日通過している道は遮断されていたので、いつもより大きく迂回しつつ、車は南側からタハリールへ接近するが、Kasr El Nilは完全に通行止めになっていたため、車を降りて、軍人さんの間を身を小さくしながら歩いていった。

TE DATAと同様、徹底的にかきまわされたなにかのオフィスの窓に目が留まった。銃弾が貫通した穴が開いている!前方には、燃やされた警察のトラック。そのさらに先は、何台もの戦車がタハリールの入り口をふさいでいる。事務所の入っているビルの警備のおじさんたちは、途方に暮れた不安顔で、僕らを迎えてくれる。いつものように元気に朝の挨拶を返してはくれない。陽気さを失ったエジプトは、気の抜けたビールみたいだ。

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こうしてオフィスにたどりつき、自宅を事務所にするために必要と思われるものを持ち出して、帰宅。ボスも一人暮らしで満足な食事もできないだろうし、夜まで電話とテレビで情報収集しながら対策をたてる必要もあるから、数日拙宅で寝泊りしてもらうことにした。テレビがいつもと違う殺伐としたカイロの街を写し、子どもたちが「これ、ほんとうにおきていることなの?」と不安がるなか、ボスが数日とはいえ一緒にいてくれて賑やかになったのは、救いだった。

こうして、欠陥だらけの仮緊急対策本部を舞台に、僕らは僕らなりの革命を体験していった。夕方には、お向かいさんが顔を出してくれて、家の外は界隈の男たちが包丁やらナタをもって夜通し警備にあたっているから安心しろと言ってくれた。安心してドアをしめてから、ボスと僕は、

「あれって、もしかして自警団へのお誘いだったのかな?」
「うーん、日本は平和国家だから、非武装で、ここから見守ろう。」

などと阿呆なことを言って笑った。
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