えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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5月29日、カイロ新市街ヘリオポリスに建つ、1920代の古いフラットを訪ねた。
この家の持ち主、Ladislav Otakar Skakal氏は、どう見てもエジプト人には見えない。
聞くと、イタリア人50%、チェコ人25%、そして日本人25%という素敵なミックス。
それぞれのお国の調度品に囲まれた居間でお茶をご馳走になりながら、ドラマのような実話が語られる。
時は、1914年。パリ留学を終えた若き日本人女性MISUMOTO ITOさんは、客船に乗り、地中海からスエズ運河を渡って、帰国の途についていた。
そこで、第一次世界大戦が勃発。スエズ運河が閉鎖され、イトさんはフランスがエジプトに築いた運河の街、ポート・サイード(フランス流にはポール・サイード)で立ち往生を食う。イトさんは、時を同じくしてポート・サイードに逗留していたチェコ人男性と劇的に恋に落ち、そしてエジプトの地で夫婦として暮らすことになった。
カイロに移り住み、2人の男の子を得、そのうちの一人がイタリア人女性と結婚し、目の前にいるLadaislavさんが生まれた。
20世紀初頭に一人フランス留学する日本人女性というのは、相当に裕福で先進的教養に溢れた家に生まれ育ったに違いない。カイロの上流階級のサロンでも一際ファッショナブルに着飾ったおしゃれな女性として、記憶されているらしい。2つの世界大戦、王政の廃止とナセル革命という、激動の中東史を生き、50年代に亡くなったイトさんの生涯は、きちんと記録すれば、多くの人に読まれておかしくないはずだ。そして、孫のLadaislavさんが、いま、頑張ってその伝記執筆に取り組んでいる。
ただ、残念なことに、一次資料が足りない。聞くと、イトさんが日本の長崎の実家とやりとりしていたはずの手紙など、イトさんと日本をつなぐ証が記録としてほとんど残っていないのだという。Ladaislavは、長崎の原爆で家族との音信が途絶え、イトさんは絶望して自分の日本人としての文化的背景を抹殺したのではないか、と推測するのだが、事実ははたしてどうだろうか?
かつて、Ladaislavさんは長崎を訪ね、イトさんの足跡を調べようと試みたが、手持ちの情報があまりにも少なく、また、自信日本語ができないため、手がかりすらつかめなかったそうだ。
Ladaislavさんは、イトさんを主人公にした伝記が完成したら、次にはオーストリアと日本の血を分けた父のことを書き、最後に自分のことを書いて(自分が生きていたら)三代の家族史を編纂したいと意気込む。1920年代まで書き進めたイトさんの伝記は、イトさんのアイデンティティの根幹を成す日本時代の記録、そしてイトさんが外国に渡ってからの日本の家族との交信の記録なくして、果たして完成・出版の日の目を見ることができるだろうか?
この家の持ち主、Ladislav Otakar Skakal氏は、どう見てもエジプト人には見えない。
聞くと、イタリア人50%、チェコ人25%、そして日本人25%という素敵なミックス。
それぞれのお国の調度品に囲まれた居間でお茶をご馳走になりながら、ドラマのような実話が語られる。
時は、1914年。パリ留学を終えた若き日本人女性MISUMOTO ITOさんは、客船に乗り、地中海からスエズ運河を渡って、帰国の途についていた。
そこで、第一次世界大戦が勃発。スエズ運河が閉鎖され、イトさんはフランスがエジプトに築いた運河の街、ポート・サイード(フランス流にはポール・サイード)で立ち往生を食う。イトさんは、時を同じくしてポート・サイードに逗留していたチェコ人男性と劇的に恋に落ち、そしてエジプトの地で夫婦として暮らすことになった。
カイロに移り住み、2人の男の子を得、そのうちの一人がイタリア人女性と結婚し、目の前にいるLadaislavさんが生まれた。
20世紀初頭に一人フランス留学する日本人女性というのは、相当に裕福で先進的教養に溢れた家に生まれ育ったに違いない。カイロの上流階級のサロンでも一際ファッショナブルに着飾ったおしゃれな女性として、記憶されているらしい。2つの世界大戦、王政の廃止とナセル革命という、激動の中東史を生き、50年代に亡くなったイトさんの生涯は、きちんと記録すれば、多くの人に読まれておかしくないはずだ。そして、孫のLadaislavさんが、いま、頑張ってその伝記執筆に取り組んでいる。
ただ、残念なことに、一次資料が足りない。聞くと、イトさんが日本の長崎の実家とやりとりしていたはずの手紙など、イトさんと日本をつなぐ証が記録としてほとんど残っていないのだという。Ladaislavは、長崎の原爆で家族との音信が途絶え、イトさんは絶望して自分の日本人としての文化的背景を抹殺したのではないか、と推測するのだが、事実ははたしてどうだろうか?
かつて、Ladaislavさんは長崎を訪ね、イトさんの足跡を調べようと試みたが、手持ちの情報があまりにも少なく、また、自信日本語ができないため、手がかりすらつかめなかったそうだ。
Ladaislavさんは、イトさんを主人公にした伝記が完成したら、次にはオーストリアと日本の血を分けた父のことを書き、最後に自分のことを書いて(自分が生きていたら)三代の家族史を編纂したいと意気込む。1920年代まで書き進めたイトさんの伝記は、イトさんのアイデンティティの根幹を成す日本時代の記録、そしてイトさんが外国に渡ってからの日本の家族との交信の記録なくして、果たして完成・出版の日の目を見ることができるだろうか?
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