忍者ブログ
えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
[17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

昨日、エジプト人のスタッフから突然、「明日、テレビインタビューが入っています。」と言われ、「何について聞くの?」と問うたら、「Your life.」との回答。

ホワット?マイ・ライフ??

思わず、声が上ずった。エジプトの大切な電波を使って、お仕事のミッション紹介かと思いきや、なぜにこのオレのことをしゃべるのが番組になるのか。。。

まあ、そのへんがうちのスタッフの辣腕のなせる技というのが一つの真実で、もう一つはこの国のテレビ業界自体が試行錯誤しながら視聴者のニーズがどのへんにあるのか探っている段階だということだろう。

「それで、番組のタイトルは?」
「VIP。」

ホワット?ヴイー・アイ・ピー??

これにはさすがに抵抗した。そんなのありえないだろ。いくら自分が可愛い僕だって、そのタイトルでみなさまのお茶の間を濁すわけにはいかない(「お茶を濁す」とは言っても、「お茶の間」は濁さないか・・・)。

よく聞くと、実はまだこの新番組は放送されていなくて、タイトル未定のまま人選を行って採りためをしているとのこと。そして、その場で彼女がテレビ局のディレクターに電話で確認したら、最終的なタイトルは「Guest of Honor」に決まったそうだ。

まあ、ゲスト・オブ・オナーなら、ぎりぎり許されるかな。うちのスタッフGさんがせっかくつかまえてきた広報機会だし、断ったら泣かれそうだったので、引き受けることにした。

チャンネルは、Nile TV for Culture and Artsとかいう、Nile TVの文化版で、視聴者対象が限定されているからか、英語番組。アナウンサーの女性は流れるような美しい英語で質問を投げかけ、通訳も間にはさまらないので、気持ちよく話すことができた。

自分のライフストーリーといっても、何歳で初恋とか、中学のとき草野球でかっこつけて鎖骨を折ったこととかを話してもしょうがないし、さすがにそんなことに水を向ける質問はなかったが、それでも、なんで法学部に進んだのかなんていった、僕のことを個人的に知りたいと思う人じゃなきゃ絶対に関心をもちそうもないことまで聞いてきたので、日本の教育のありかた~大学は実質よりも名前で、社会はつぶしの効きそうなヤツをとりたがるという前提について前置きしたりして、少しでも一般化できるようにしてみた。

インドの話とエジプトの話をつなげて、アジアと中東ではやはり違いがあるのか、というような質問もされたが、本質的な差異を語るのには相当いろんなことを言わないといけないと思い、長い歴史のなかで文明の興亡があり、その堆積の上に現代の暮らしがあることを実感できるという点で、デリーもカイロも、自分にはえらく魅力的なのだ、と答えた。こちらは逆に主観にひきつけて話してしまって、耳に聞こえはいいけど面白くない話になってしまったかもしれない。

まー、実際に放送されるかどうかはまだわからないし、海外で自分がテレビに出るというのは、日本にいるときよりも受け止め方の比重がぐんと落ちるので、「あとは好きにしてください。」という気持ちなのだが、たいていは予告なく放送されてしまって、記録が残らず、そのうち自分の記憶からも消えてしまうはかない運命をたどりがちなので、放送された暁には、できれば録画したいなー。
PR
団欒中、たまたま、とある知り合いの道をぜんぜん知らない運転手さんの話題になった。その運転手さん、ゲジーラ島の南端にタワーのようにそびえるSOFITEL GEZIRA HOTEL(旧SHERATON GEZIRA TOWER)に行けと言われて大事な客人を乗せ、ゲジーラ島の中央にでんと構えるカイロ・タワーにつけてしまい、主人に大叱責を受た。

そんな思い出を語っていると、ふと、インド勤務時代のふるい思い出までがよみがえってきた。2000年、クリントンやらプーチンやら、大国の首脳が成長しつづけるインド市場に注目してこの国を訪問していた。その波にのって、わが国の総理大臣森さんもまた、インドにやってこられ、当時のヴァジパイ首相との間でグローバル・パートナーシップを高々と宣言したのだった。

僕は、その二国間の晴れやかな未来を誓うイベントの裏の裏で冷や汗をかいていた。さすがに首相受け入れともなると大使館のマンパワーだけでは間に合わないようで、僕ら政府系機関の駐在員も助っ人として期待される。朝食時の日本側首脳たちの会合に間に合わせるべく、早朝から彼らが滞在するホテルに作られたスタッフルームにて、朝刊の和訳作業。そのほか僕にあてがわれたのは、同行して東京からやってきた記者さんたちのお世話。お世話にといってもたいしたことをするわけではないが、彼らが乗るバスに一緒に乗り込んで、車列を乱さぬよう、総理一行のバスを追跡するというのが主たる業務。ただ乗ってりゃいいお気楽な仕事かと思っていたら、なんと、そのプレスご一行のバスの運転手が、まったくデリーの道を知らないときた。前を走る車列を見失ってから、どうもフラフラしてるなと思っているうちに、目的地のホテルとはあさっての方向へとすすんでいたのだ!「おまえ、なんで道知らないんだ、運転手のくせに?」と問いただしたら、「あたしゃあ、ラジャスターンの田舎から3日前に出てきたばかりですぅ・・・」とか細い声。おい、そんなデリーにウェルカムされたばかりの田舎もんが、なんで運転手やってる???しかも、日本国の総理大臣の車列を動かす大役を???

僕は、アグラにも同行した。これは余興で、要はインドに来てタージマハルを見ないのは、外交的に失礼にあたるってんで、特に要人との面談があるでなく、ただタージマハルに行って帰ってくればいいのだが、ここでも事件がおきた。この時期、インド最高裁は、白亜の宮殿が煤けてきている公害問題を重視して、半径1キロ以内の車両通行を禁止する命令を下したものだから、われらが森総理ご一行もまた、途中で車を降りて、そこからフリーで出ている電気自動車に乗り込むことになった。またもや、プレスを乗せて最後尾を走る僕は、最後に電気自動車乗り場にたどり着き、プレスご一行を乗せこんで、タージマハル前の門に一番最後にたどり着いた。この日は特別にこの時間帯、日本の一行のために貸し切りになったタージマハル!緊張感が緩んで、僕もめいっぱい至上の美に酔いしれようと思って、ゲートをくぐった。そのとき、ふっと後ろをふりかえると・・・・

なんと、日本の一行数十人を分乗させてきた電気自動車たちがぜんぶ、出発地点へむけて引き返えしているではないか!!まずい、このままでは総理大臣が来たとき、お輿がない。そんな結果になったとき、いったい、責任は誰のところに飛んでくるのか・・・・怖くなった僕は、力の限り叫んだ。「ルコー!!」(ヒンディー語で「止まれ」)。そして、何度も叫びながら、全力で走った。電気自動車とはいえ、時速20キロくらいは出るから、とても追いつけない。もうだめか、とあきらめかけたとき、僕の叫びが届いたらしく、運ちゃんたちがこちらをふりむいて、そして戻ってきてくれた。説明すると、事情を理解してくれたらしく、それからはおとなしくタージマハルの門の前で待機していてくれた。

何がいいたいかって?インドでもエジプトでも、運転手さんとの話題には事欠きません。
故障が多くなって修理代がばかにならなくなってきた車を売って、新車を購入した。といっても、新車の納入手続きがいろいろあって、先週からずっとタクシー通勤をしている。カイロのタクシーは、新しい規格にのって登場したイエローとホワイトの新車群のメーターは一応動くことになっているが、従来の黒地に白模様のほうで、メーターをまわしてくれた人はほとんど皆無。カイロ生活も1年5ヶ月を超え、いまは乗る前の料金交渉には一切応ぜず、目的地に着いたら、いったん車から外に出て、運転席の窓から小銭の束を投げ入れてそそくさと立ち去る方式をとっている。これなら、よっぽど交通のない通りでもない限り、運転手が車から降りて追いかけてくることはないので、自分の言い値で乗ることが出来るのだ。

それでも、眠っていれば運転手さんが目的地に運んでくれる私用車暮らしとは全く違う体験であることには違いなく、毎日のこととなれば、けっこうなストレスではある。

昨日も、午後6時頃、ビルの下に降り、微妙にアンニュイな気分でタクシーを待っていた。もちろん、ワイシャツのポケットには、自分の言い値のエジプトポンドをしのばせて。

すでにお客さんが乗っていたり、運転手がめんどくさがったりして、数台のタクシーにパスされる。炎天下、じりじりと焼かれて、さらに気が滅入ってくる。そこで、自分の待っている通りに三叉路で接している大通りを、特殊な噴霧機をしょったトラックが走ってきて、真っ白い粉末を放出し続けている。トラックの周囲は一面真っ白になり、視界から消え、そして20mほど先の僕にまで襲いかかってきた。強力な消毒剤が喉や鼻を刺激する。おい、こんなもん、平然と路上にぶちまけるんじゃねー!!!

怒りにうちふるえているところへ、白い煙のなかから黒地に白の旧型タクシーがやってきて、止まってくれた。乗り込んだ僕に、おもむろにティッシュを2枚、ボックスからとりだして、渡してくれた。

こんなおそろしい消毒液噴霧は、こっちに来てはじめて見た。
もしかして、オバマが4日にやってくるってんで、カイロ中を消毒してまわっているんだろうか???
過去ブログを眺めていると、タブラ教室がはじまったのは、一年前の6月22日のことだった。仕事もち中心のレッスンだから、ちょくちょく休講になったし、個人練習をまじめにやるでもないので、なかなか上達せず、30パターンくらいのリズムをやったはずだが、身についているのはせいぜい5~6個程度というていたらく。

そんな低空飛行状態を見て、レッスンのお目付け役であるわれらがベリーダンサーかすみ先生が提案したのが、発表会。といっても、不特定多数に見せるんじゃなくって、仲間うちだけのささやかな会だけど、それでも人に聞かせる前提で練習するというプレッシャーがかかるから、一応、自分がやる曲だけでもそれなりに練習することになった。

マーディー地区に住むマダムによる別レッスンに参加されていたMさんが広いご自宅を開放してくださり、僕たちのグループ7名とMさんの計8名が、一人一曲、持ち曲をCDにあわせてたたいた。それに加え、MさんとうちのグループのFさんは、ベリーダンスを披露。目のやり場に困る例の衣装をまとって登場するも、だんだんと踊りそのものの華やかさとエネルギーに引き寄せられ、気がつくと目も心も奪われてしまった。

さらには、ベリーダンスの前の余興中の余興として、男性人によるサイーディー・ダンスの群舞披露!サイーディーってのは、ルクソールやアスワンなど、南エジプトの人たちやその文化の総称で、音楽や舞踊の場合、ドンタク●ドンドン●タク●という後ろ2拍がバスで重い感じのリズムにあわせ、アサーヤという棒をふりまわしながら、マーシャルアーツっぽいシンボリックな振り付けで踊るもの。部族の男たちの益荒男ぶりを表現したものだろうと思われる。僕らも、めいめいが土産モノやなどで仕入れたガラベイヤを着て、頭に布をグルグル巻いて、インスタント・サイーディーになって、踊った。かすみ先生が指導をつけてくれたものの、練習時間が足りず、パターンもうろ覚えのまま本番に臨んだら、やっぱり、アサーヤをぶるんぶるん振り回しては落とし、みっともないことこの上ない。まあ、それでも、格好がキマッていたので、内輪ウケとは言え、盛り上がりをみせた幕開けだった。

太鼓のほうは、僕は大のお気に入りの、オンム・クルスームが歌う「エンタ・オムリー」をたたいた。全体にスローなリズムは、ノリを出すのが難しくて、もっと音数の多い曲にすればよかったとも思ったが、美しいメロディーに酔いながら、自分としてはまずまずの演奏が出来たかな、と思っている。

会が終わって、食事を済ませると、カラオケ大会!僕の娘たちのために「ぞうさん」や「犬のおまわりさん」を選曲してくれたみなさんに感謝!そして、なにより、「犬のおまわりさん」にあわせてベリーダンスを踊ってくれたかすみ先生は、あまりにも神々しかった。

日本では最近、ベリーダンスがメインストリームの文化としてはやっているそうで、帰国後は、こんな僕らでも雇ってもらえる受容があるのかしらん。それを見越して、もう少し精進するとしようか。。。

ちょうど一年前、2008年5月29日、イタリア人ハーフ、チェコ人クオーター、日本人クオーターで、生まれも育ちもエジプトというコスモポリタン、ラダイスラブ・スカーカルさんの自宅を訪問した。

http://egyptians.blog.shinobi.jp/Entry/43/

で報告したように、彼の日本人のおばあさんの数奇な人生は、あまりにもドラマチックで、こんな話をテレビ局関係のしかるべき人にしたら、昨今急増している感動で涙腺を振るわせたい人たちを喜ばせようと思って、力の入ったお涙ちょうだいヒューマンドラマを作りたがるだろうと思う。

去年の訪問とときを同じくして、共同通信の特派員が彼を取材した。その配信記事が長崎の地方紙に載ってしばらくして、おばあさんのイトさんの親戚が新聞社に名乗り出てくれて、とうとうラダイスラブさんは自分の日本の身内にたどりついたのだった。長崎新聞の記事をもって、事務所でうれしそうに報告してくれた彼の喜びようといったら!

ラダイスラブさん、一年前から書いていたイトおばあちゃんの伝記をまもなくフランスで書き終えるそうで、それが終わったら、いよいよ、秋には日本に行くんだそうだ。そんなこんなの近況を話してくれたのは、昨夜彼が知人・友人をいっぱい呼んでのホームパーティ。彼の友人のレバノン人ドキュメンタリー映画作家は、ぜひこの日本ツアーに同行して、親族の再会の物語を記録したいと意気込んでいた。

パーティーには、いろんな国籍、エスニシティの人たちが30人ほど集まり、英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、イタリア語が飛び交っていた。そして、この5つの言語すべてを、ラダイスラブさんは自由に使いまわしている。残念ながら、日本語はどうも手につかないそうだが、できればこの秋の日本旅行をゆったりと計画して、日本語環境のなかでじっくりと学んでみたい、と話していた。

しかも、おどろいたことに、ラダイスラブさんが一生懸命料理してくれたのが、豚肉と黒豆をつかったブラジル料理!エジプト人のムスリムもいっぱいいるパーティーなのに!しかも、カイロの豚が皆殺しになったばかりなのに!後者については、聞くとカイロ郊外で養豚農場を経営するドイツ人から買った肉だとかで、今回大処分にあったストリートの豚とは違った形で処分されて、こうして食卓に現れているのだという。前者については、食事がセットされたテーブルに群がるエジプト人と思しき人たちが、「これ、なんの肉?」と聞くので、僕は素直に「豚肉だよ。」と答えた。言った途端にまずいことを言ったかなと汗をかき、「ソーリー。」と言い直したら、彼らは「ノー・プロブレム」と言って、自分の皿にいっぱいに盛りつけていた。え、「ソーリー」なんてカッコ悪いこと言ってしまった僕の立場は・・・?お酒も豚肉もありのパーティーの渦中にいると、宗教に回帰していくエジプトにいることを忘れそうになる。

そして、僕は思った。イトおばあさんと彼女のチェコ人の夫が暮らした1920年代からナセルの革命が起こる50年代までの時代は、カイロが世界で最も自由なコスモポリタン都市であったんだということ。そして、その孫のラダイスラブさんは、その自由なカルチャーをいままで受け継いでいるから、彼のまわりには、その空気に共振する自由人たちが自然と集まってくるのだということ。パーティーに来ていた人の半分は、世界的に著名なエジプト人彫刻家アダム・ハネインさんら、アーティストたちだった。「ヤコウビアン・ビルディング」のなかで、アーデル・イマーム演じる落ちぶれたパシャの末裔がノスタルジアいっぱいに語る自由の街カイロが、1920年、ヘリオポリスにイトさんたちが買って孫に受け継がれたフラットの屋上に再現されているような、そんな現実とも幻ともつかないような不思議な気分にさせられた夜だった。
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新コメント
[05/13 Backlinks]
[12/27 すっかる]
[12/26 やもり]
[11/25 すっかる]
[11/25 跡部雄一]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
すっかる・ちーにー・しゅがー
性別:
男性
職業:
国際文化交流
趣味:
カレー
自己紹介:
インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]

Template by MY HEALING ☆彡