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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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サアド・ザグルール美術館のディレクターに昨年10月に就任したターレスさんがギャラリーを見に来てくれと言っているがどうするかと、スタッフのGさんが聞きに来た。

 サアド・ザグルール(Sa’ad Zaghloul, 18591927)は、ノーベル文学賞受賞者ナギーブ・マフフーズの小説『バイナル・カスライン』にも登場する、エジプト近代史上最も重要な指導者の一人だ。Gさんから聞かれたときには、ギャラリー見たさよりもサアド・ザグルールにちなんだ何かに出会えるのではという期待から、二つ返事で出かけることにした。
 
CIMG1761.JPG事務所最寄の地下鉄タハリール駅から一駅だというので、気乗りしないGさんに無理を言って、初めてのメトロ体験をさせてもらう。扇風機しかない社内はラッシュ時には相当厳しい状態になるらしいが、昼過ぎの車中は座る席こそないものの、比較的ゆったりと乗れて普通に快適だった。ちなみにカイロの地下鉄は、どこまで乗っても1ポンド(約20円)だそうだ。

CIMG1763.JPG降りた駅は、その名もサアド・ザグルール駅。5分ほど歩くと、古代エジプトの神殿のような巨大な石の建造物が現れた。これが国民の募金と建築家ムスタファ・ファハミーの設計によるサアドの霊廟だそうだ。

 

CIMG1764.JPG道路を渡ると、
Gさんが目的地に着いたと言う。「この建物がギャラリーなの?」と首をひねっていると、Gさんが門の看板を指差し、「ベイト・オンム」、すなわち「国民の館」であると説明してくれた。サアド・ザグルールの住居で現在は国有の博物館としてサアドと一族の足跡を展示している。そして、その一角が2003年から現代アートのギャラリーとして、文化省によって運営されているのだそうだ。

CIMG1770.JPG美術館のディレクター、ターレスさんは38歳。見た目はもう少し若く見える彼は、自身もアーティストでありながら、優れた行政能力をもち、ゲジーラ・アート・センターでの活躍を評価され、若くして要職に抜擢されたのだった。こじんまりしたギャラリー、ガラクタに占有され倉庫となってしまっている部屋たち、観葉植物で覆われ散歩以外に用途のない庭園らをあけっぴろげに見せながら、自分がここをまかされたからには、それらをもっと有効にアートを見せ、そして語り合うスペースにしていくのだと、決意を語ってくれた。予算のかかる大規模な展示プロジェクトを5年や10年に1回やっても残るものは少ない。むしろ、地道に小規模の活動を継続していくことで漸進的に発展させていくべきである、という彼の考えに共感を覚えた。

 日中のカイロは20度を超え、ポカポカ陽気が続いている。こんな素敵な日中に散歩して、清潔に整頓されたディレクター・ルームでトルキッシュ・コーヒーをご馳走になりながら文化を語り合えるとは、なんて贅沢なことだろう。それだけで大満足だったのだが、ターレス氏はお土産に博物館へと僕等を導いていった。中に入るとスカーフを被った上背のある若い女性スタッフがにこやかに迎えてくれ、ターレス氏の指示で、懇切丁寧な解説を始めた。解説はアラビア語だったので、Gさんが英訳してくれた。

CIMG1776.JPGCIMG1780.JPG建物は改装されているということだが、家具、調度品、衣服などは当時ザグルール家が使用していたものをそのまま展示している。サアドと彼を支持する活動家たちが日々議論を重ねた会議室、家族が団欒を楽しんだダイニング(サアドの肖像画がプリントされたグラスや手を洗うためのアラブ式の水差しが印象的)、サアドの死後、妻のサフィーヤが身につけた黒の喪服(エジプトではファラオ時代から喪服は黒だった)、サアドが愛した2羽のオウムの剥製(一羽はアラビア語、もう一羽はフランス語で話したという)、暗殺未遂でサアドが銃弾を受けた上衣、日光を取り入れるため天井にガラスを散りばめたバスルーム、衣類をしまう大きなヴィトンのトランクケース、小型の冷蔵庫ほどもあるレトロなラジオ、柔らかいシルクの手触りが今も残るトルコ絨毯など、ヨーロッパとローカルの文化の粋がセンス良くブレンドされている。今ではすっかり見られなくなったそうだが、当時の建築は、夏の暑気を散らすために天井を高くしていたとのことで、サアド家の天井も5メートル近くあった。

CIMG1777.JPG2階の壁にかけられた額縁に目が留まった。方眼の一つ一つに署名が書かれている。サアドが中心になって国民から集めた独立請願書の1枚だという。サアド・ザグルールは、第一次大戦後オスマン・トルコ領の自治を拡大するとの約束を反故にした英国植民地政府に立ち向かい、大衆の支持と参加をとりつけながら、粘り強く運動を展開し、1922年、様々な制約を伴いながらも独立を勝ち取った「エジプト独立の父」である。その過程においては、2度もエジプト国外に追放される憂き目に会いながら、不屈の精神で闘争を継続した。英国植民地政府からの独立運動といえば、ガンディー率いるインド国民会議派の非暴力・不服従運動にどうしても焦点が集まってしまうが、大きな世界史の流れの中では、暴力ではなく言論と大衆参加によってインドに先んじて独立を果たしたエジプトの経験もまた、同様に尊い。

CIMG1781.JPG「国民の館」には、何枚もの歴史的な写真が飾られている。その中の一枚では、カイロ繁華街の写真展でポートレートを撮ってもらっていたサアド・ザグルールを、何百人もの市民が一目見たさに群がっていた。ターレス氏が「国民の館」の名前の由来について、興味深い逸話を聞かせてくれた。ある日、いつもと同じようにサアドの家に同士の政治家たちが集まり議論が始まった。そのうちに議論が沸騰して激昂する者が出たため、サアドは「君たちはどうして私の家で大騒ぎするんだね。それだったら出て行ってくれたまえ。」と言い放った。それを聞いたサアドが信頼する友人の一人が言うには、「どうしてここがあなたの家だなんて言うのですか?ここは、人々を独立にむけて結集させる国民の家じゃないですか。」それを聞いて、サアドは黙して頷いたと言う。

CIMG1772.JPGターレス氏が観葉植物を整理してオープン・シアターとカフェテリアを作るのだと語る庭園には、巨大ななつめやしの木が何本も植わっている。このなつめやしにも、サアド・ザグルールにまつわる逸話があると、ターレス氏がにこやかに語ってくれた。独立運動の過程で英国政庁や穏健派などから疎まれ、二度の追放の憂き目にあったサアドのこと、一度は国民の間で彼の名前を口にすることが禁じられたことがあったという。そのとき、人々は、ザグルールという種類のなつめやしのこと(木やデーツの実)を語っているふりをして、隠語でサアドの噂話をしたという。

 この日覗いた限りでは、ギャラリーには来客が少なく、まだまだカイロっ子の認知を広く受けるには至っていないように見えた。ターレス氏がこの「国民の館」をアートの力で活性化するための取り組みは、まだ緒についたばかりだ。

(参考 山口直彦『エジプト近現代史』 明石書店 
2006年 pp. 248-264
 
 
 
 
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