えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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なにを隠そう、パレスチナとイスラエルは、エジプトの隣国だ。アラブ諸国にとって積年の宿敵イスラエルが隣国にあり、同志が苦境にたたされているのだから、さぞかしカイロの日常にパレスチナ問題が横たわっているのだろうと想像して来てみたら、あてがはずれた。われわれ外国人居候者にとってみれば、日本から見ているのとほとんど変わらないくらいの存在感しかない。
もちろん、メディアでは毎日なにかしら関連ニュースが報道されてはいる。僕はテレビはほとんど見ないが、新聞ではパレスチナ・イスラエル関連の記事・論説を見ない日はないくらいだ。それでも、やはりパレスチナは遠い。
「あてが外れた」と思う一番の理由は、日常的に人々がこの話題を口にすることがないせいだ。あるいは、われわれの目に入ってくるほどには、パレスチナの大義を訴える運動が顕在化していないせいでもあるかもしれない。
もう一つは、いくら報道が騒いでいても、「他山の火事」という雰囲気がありありと漂っているからだと思う。ナセルの時代に高揚したアラブ民族主義は過去の遺物となり、政府もメディアも、国家が抱える課題の優先リストからこの問題を外してしまった感がある。そもそもからして、サダトのイスラエル電撃訪問に続くキャンプ・デービッド合意でイスラエルと国交を結んでしまった「アラブの盟主」は、その時点で国際政治におけるリーダーシップを放棄してしまったと、内外から認知されたのだ。
おまけに、巨額の財政赤字の埋め合わせとして米国の援助に依存しているから、湾岸戦争以降のアラブの危機に際して、アラブ・中東世界の利益のために立ち回ることができない。大局的にみると、アメリカに言いように押さえ込まれている、日本のような国なのだ。
1月9日、ブッシュ・オルメルト会談を、出張先のアレキサンドリアのホテルのCNN実況中継で見た。「実況」といっても、たまたま時差のない国にいてたまたまテレビのスイッチをひねったから、ライブになったに過ぎない。ブッシュはイスパレ訪問に続いてエジプトでムバラクにも会ったようだが、ムバラクがパレスチナの立場にたって何かを本気で訴えたというような報道には接していない。
1月23日、ハマスがガザとエジプトの国境の壁を破壊、物資欠乏にあえぐ20万人から30万人のガザ市民がエジプト側に流出し、市場で買い漁った。ハマスの行為は、ハマスによるガザ制圧、イスラエルによるガザ封鎖、人道支援物資以外の物資供給停止という一連の事態に対するやぶれかぶれの挙といえなくもなく、飢えに苦しむ市民の立場にたってみれば同情してしかるべきだ。しかし、数日をもって壁はふたたび閉じられ、ガザ市民の窮乏生活は今も続いている。ここでもエジプトは、アラブの同志としての大義を果たせないまま、結果として米国・イスラエルを利することになる。
かくいう僕自身に、パレスチナ問題に向き合う主体性がないため、一層隣国にいるという切迫感がないわけだが、少しばかり気持ちをもりあげたくて、2冊の本を読んだ。一冊は、エドワード・サイードの『パレスチナへ帰る』(四方田犬彦訳、作品社)。もう一冊は、コミック・ジャーナリズムの名著『パレスチナ』(ジョー・サッコ著、小野耕世訳、いそっぷ社)。
前者所収の「悲嘆の普遍性のなかのふたつの民族」は、世界が絶賛し当事者にノーベル賞が贈られたオスロ合意への徹底的な不服表明として書かれた。
「もし過去を忘れて、二つの分離国家を築こうなどと口にすることは、いかなる意味でも受け入れがたいことだ。過去を忘れることが、ホロコーストのユダヤ人の記憶のなかで侮蔑であればあるほど、イスラエルの側の手で土地を奪われ続けているパレスチナ人にとっても、それはひとしく侮辱なのである。」(同掲 p. 129)
このとき「現実的解決」とマジョリティが礼賛した解決策=分離案に対しサイードが敢えて哲学的高みから理想を語らざるを得なかった絶望的状況から、事態はさらに絶望の度合いを深めている。西岸のアッバス政権、ガザのハマスにパレスチナ自体が引き裂かれた状況は、イスラエルとの間の未来に向かってのなんらかの対話すら不可能にしている。
サッコのコミックは、遠く日本で読んだとしたら違った感想をもったかもしれないが、隣国で読むには二重にきつすぎる。二重の意味は、一つにはサッコが描くパレスチナの現実の厳しさとイスラエルの非道さへの悲しみや怒りの感情を刺激されるから。もう一つは、「現場」にいるサッコが作品のなかで「観察者」としての自分自身のあいまいな立場に負い目を見せたり皮肉を言ったりしている「揺れ」がこの作品の強さなのだろうが、じゃあ、それをさらに高みから、カイロの高級住宅地のソファに寝そべって紅茶を啜りながら眺める自分は一体なんなのか?隣国で、なまじっか関心をもってしまうから、こんなことになる。どうせなら、自分の世界から存在として消してしまえばいいものを。
国際交流に従事する者として、たまたまパレスチナの隣国で仕事をする好機をもらったものの、いまはただ、エジプトにとってそれが「他山の火事」であるように、静観するしかない。サッコの描く厳しい現実と、サイードが唱える理想を前にして、「何かしたい」というナイーブな気持ちだけでは、どうしようもない。
もちろん、メディアでは毎日なにかしら関連ニュースが報道されてはいる。僕はテレビはほとんど見ないが、新聞ではパレスチナ・イスラエル関連の記事・論説を見ない日はないくらいだ。それでも、やはりパレスチナは遠い。
「あてが外れた」と思う一番の理由は、日常的に人々がこの話題を口にすることがないせいだ。あるいは、われわれの目に入ってくるほどには、パレスチナの大義を訴える運動が顕在化していないせいでもあるかもしれない。
もう一つは、いくら報道が騒いでいても、「他山の火事」という雰囲気がありありと漂っているからだと思う。ナセルの時代に高揚したアラブ民族主義は過去の遺物となり、政府もメディアも、国家が抱える課題の優先リストからこの問題を外してしまった感がある。そもそもからして、サダトのイスラエル電撃訪問に続くキャンプ・デービッド合意でイスラエルと国交を結んでしまった「アラブの盟主」は、その時点で国際政治におけるリーダーシップを放棄してしまったと、内外から認知されたのだ。
おまけに、巨額の財政赤字の埋め合わせとして米国の援助に依存しているから、湾岸戦争以降のアラブの危機に際して、アラブ・中東世界の利益のために立ち回ることができない。大局的にみると、アメリカに言いように押さえ込まれている、日本のような国なのだ。
1月9日、ブッシュ・オルメルト会談を、出張先のアレキサンドリアのホテルのCNN実況中継で見た。「実況」といっても、たまたま時差のない国にいてたまたまテレビのスイッチをひねったから、ライブになったに過ぎない。ブッシュはイスパレ訪問に続いてエジプトでムバラクにも会ったようだが、ムバラクがパレスチナの立場にたって何かを本気で訴えたというような報道には接していない。
1月23日、ハマスがガザとエジプトの国境の壁を破壊、物資欠乏にあえぐ20万人から30万人のガザ市民がエジプト側に流出し、市場で買い漁った。ハマスの行為は、ハマスによるガザ制圧、イスラエルによるガザ封鎖、人道支援物資以外の物資供給停止という一連の事態に対するやぶれかぶれの挙といえなくもなく、飢えに苦しむ市民の立場にたってみれば同情してしかるべきだ。しかし、数日をもって壁はふたたび閉じられ、ガザ市民の窮乏生活は今も続いている。ここでもエジプトは、アラブの同志としての大義を果たせないまま、結果として米国・イスラエルを利することになる。
かくいう僕自身に、パレスチナ問題に向き合う主体性がないため、一層隣国にいるという切迫感がないわけだが、少しばかり気持ちをもりあげたくて、2冊の本を読んだ。一冊は、エドワード・サイードの『パレスチナへ帰る』(四方田犬彦訳、作品社)。もう一冊は、コミック・ジャーナリズムの名著『パレスチナ』(ジョー・サッコ著、小野耕世訳、いそっぷ社)。
前者所収の「悲嘆の普遍性のなかのふたつの民族」は、世界が絶賛し当事者にノーベル賞が贈られたオスロ合意への徹底的な不服表明として書かれた。
「もし過去を忘れて、二つの分離国家を築こうなどと口にすることは、いかなる意味でも受け入れがたいことだ。過去を忘れることが、ホロコーストのユダヤ人の記憶のなかで侮蔑であればあるほど、イスラエルの側の手で土地を奪われ続けているパレスチナ人にとっても、それはひとしく侮辱なのである。」(同掲 p. 129)
このとき「現実的解決」とマジョリティが礼賛した解決策=分離案に対しサイードが敢えて哲学的高みから理想を語らざるを得なかった絶望的状況から、事態はさらに絶望の度合いを深めている。西岸のアッバス政権、ガザのハマスにパレスチナ自体が引き裂かれた状況は、イスラエルとの間の未来に向かってのなんらかの対話すら不可能にしている。
サッコのコミックは、遠く日本で読んだとしたら違った感想をもったかもしれないが、隣国で読むには二重にきつすぎる。二重の意味は、一つにはサッコが描くパレスチナの現実の厳しさとイスラエルの非道さへの悲しみや怒りの感情を刺激されるから。もう一つは、「現場」にいるサッコが作品のなかで「観察者」としての自分自身のあいまいな立場に負い目を見せたり皮肉を言ったりしている「揺れ」がこの作品の強さなのだろうが、じゃあ、それをさらに高みから、カイロの高級住宅地のソファに寝そべって紅茶を啜りながら眺める自分は一体なんなのか?隣国で、なまじっか関心をもってしまうから、こんなことになる。どうせなら、自分の世界から存在として消してしまえばいいものを。
国際交流に従事する者として、たまたまパレスチナの隣国で仕事をする好機をもらったものの、いまはただ、エジプトにとってそれが「他山の火事」であるように、静観するしかない。サッコの描く厳しい現実と、サイードが唱える理想を前にして、「何かしたい」というナイーブな気持ちだけでは、どうしようもない。
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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。
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