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道路を渡ると、Gさんが目的地に着いたと言う。「この建物がギャラリーなの?」と首をひねっていると、Gさんが門の看板を指差し、「ベイト・オンム」、すなわち「国民の館」であると説明してくれた。サアド・ザグルールの住居で現在は国有の博物館としてサアドと一族の足跡を展示している。そして、その一角が2003年から現代アートのギャラリーとして、文化省によって運営されているのだそうだ。
(参考 山口直彦『エジプト近現代史』 明石書店 2006年 pp. 248-264)
3月23日土曜日、朝から妻に兆しがあり、昼過ぎから弱い陣痛が始まった。
第1子のときと比べてあまりにも微弱であったため、妻は日本人会に注文していた豆腐をとりに行き、のんびりと僕と長女の昼食を作り、午後3時頃には客人を迎えお茶したりしていたが、念のためと思って4時過ぎにドクターに電話。とりあえず来いと言われ、休暇中の運転手さんを呼びつけ、病院に到着したのが午後5時。主治医のDr.ネヴィーン(女医)の到着を待つ間、アシスタントのDr.アイマン(男医)の診察を受け、まだまだ時間がかかりそうということで、とりあえず入院する個室を確保してアドミッションの様式に必要事項を書いて提出。この時点では出産が何時間、いや何日後になるのか、はたまたまだまだ先のことと判断されて一旦家に帰されやしないかといったもろもろについては、まったく知りえなかった。
エジプトで出産するという話を日本で身内や知人にしたときの反応はさまざまだったが、積極的応援派は少なかった。これは出産に限らずだが、いわゆる途上国の医療サービスに関する漠とした不信感というものは、少なからず我々のなかに染み付いているもののようである。かくいう僕ら夫婦だって、揺るぎない自信をもって決断したかというと、決してそうではなく、立て続けに3人くらいから再考を促されたりすると、「たかが出産、されど・・・」なのかなと思い直して夫婦会議をしたりはしたものだった。
そんななか、上司の知り合いでカイロで出産予定の人がいるという紹介を受け、その人と妻がメールのやりとりをはじめたり、10年ほど前にカイロで出産した職場の先輩の奥様からも激励のメールをもらったりして、カイロにはしっかりしたお医者さんと施設があるから心配には及ばない、と最終的には得心し、妊娠8ヶ月に届かんとするクリスマス・イヴに、お腹の突き出た妻と、まだ乳離れしきっていない長女とともに、カイロの地を踏んだのだった。
カイロに着いてみると、事前にメールでやりとりしたUさんの他に、1月予定日のYさんという日本人もいらっしゃることがわかり、それぞれ別のクリニックに通っているというので、我々も両方のお尻に金魚のフンをして、いい方を選ぼうということにした。
その結果選んだのが、モハンデシーン地区にクリニックを構えるDr.ネヴィーンと、Dr.ネヴィーンがいつも出産に際して使用するEl Nada病院だった。ローダ島(ナイル側に浮かぶもう一つの島)に位置するモダンで新しい病院で、受付を中心に英語を話すスタッフを多く抱えている。入院用の個室はシンプルなシングル・ルームにはじまって、立会人用に別部屋があり、フラットTVなど贅沢品で埋め尽くされたRoyal Suiteまで、利用者の経済状況に応じてクラスを選べるようになっており、料金的には1泊4000円程度から3万円までのヴァリエーションがある。我々は、1st Class Luxという一泊7000円くらいの部屋を選んだ。リモコンで高さ調整のできるベッド、立会い者用ソファベッド、14インチくらいの普通のテレビ、お湯の出るシャワーがついていて、不自由感はまったくない。
妻のほうは、家では20分間隔で始まっていた弱い陣痛が、移動の車中あたりからパタっと止まり、病院でも7時頃まで陣痛を促そうとして部屋のなかを歩き回っていた。それが7時半の検診で子宮口7cmまで開き、経産婦はここからが早いことが多いということで、8時頃、妻は移動式分娩台に載せられて、階下の分娩室へ運ばれていった。長女のおむつ交換に追われていた僕は、遅れて追いかけたが、妻がどこに運ばれたのやらわからず、5分ほどいろいろな人に聞きまわって、ようやくDr.アイマンを見つけ中に入れろと苦情を言い、防菌服に着替えて分娩室に合流。娘の沙羅は入室を断られ、運転手のサーメハさんに面倒をまかせることに急遽なってしまった。このへんの急展開は、前もってドクターや病院側とよく話をつめていなかったせいでちょっとスリリングだったので、今後El Nadaで出産を考える人は気をつけてほしい。
分娩室に入ってから出産まではものの1時間。驚異的安産に一番驚いていたのは、妊婦本人だった。カイロ在住で日本で助産士をされていたXさんが様子見に来てくれた時には、いよいよいきみ始めるぞ、とういタイミングで、我々も無茶をお願いして立ち会ってもらうことになり、こうして8時59分、スルリと我が次女は生まれ落ちたのだった。分娩室への移動だけはドキドキさせられたが、ドクターの腕も保障済み、終始安心感をもって臨むことができた。
安産だったということを差し引いても、カイロでの出産については、英語でのコミュニケーションに大きな不安がない限り、それほど不安がることもない。というのが、実体験をくぐりぬけた者の感想である。
本日、病院近くの保険所より、アラビア語で書かれた出産証明書をもらい、エジプトでの出産という一事業をなしとげた充実感がやってきた。残念ながら当地は血統主義のため、次女摩耶はエジプト人になる可能性をもってはいないが、カイロ生まれというめったにない称号が彼女に生涯ついてまわることになる。
カイロのお手伝いさん事情はといえば、デリーほどには楽園ではないものの、やはり衰えたとはいえまだまだ強い円パワーで、日本の物価水準からすると比較的安く雇うことができる。うちは2歳の娘がいて、さらにまもなく第二子が生まれるので、目下2人のお手伝いさんに交代で入ってもらって、家事全般を支えてもらっている。東京ではありえない万全のサポート体制といっていい。
我が家の強みはもう一つある。運転手さんだ。
僕の前々任から雇ってかれこれ10年以上、みっちり鍛えられ、そして友情と信頼を育んできた、最強のドライバーさん。ただ車を運転するだけじゃなく、買い物から切れた電球の交換、重たい荷物の運搬、そして子守り(!)まで、なんでも率先してやってくれる、気持ちの優しい機転のきくスーパーマンなのだ。「頼り甲斐」とか「男らしさ」という言葉にもっともふさわしい彼は、同時に僕自身のそうした資質についての自信を揺るがすところもあり、ときどき(適当なところでやめておいてくれ)と思わなくもない。
その運転手さんに案内されての買い物が実に楽しい。
僕が仕事に出ている平日は上さんがこの楽しみを独占しているが、先週土曜日、運転手さんに休日出勤してもらう必要があって、家族3人で揃って外出。用事を済ませた後、エジプト名物の鳩料理とスークでのお買い物をハシゴした。
スークは、Dokki(ドッキ)というエリアにあるスレイマン・ゴバラという名前で、運転手さんの実家が近くにある。そういう経緯だから、このスークの売り子さんたちのほとんど全員が彼の友達で、ひげ面コワモテの兄ちゃんや巨漢おばちゃんたちとハイタッチで風を切って歩く彼の姿が、またまた頼り甲斐たっぷりに見える。
当然、外国人料金が課せられるところを、彼が制して歩き、この街の適正な価格で買い物させてくれる。店員さんたちも、彼の「ボス」ということで、一応、一目おいてくれるのだから、楽しくないわけがない。買わないで陳列された野菜やら肉やらを眺めているだけでも、スーパーやコンビニにはない「市場」の原型を想起させてくれ、スークを後にするときには活力を注入されたような気分になる。売り子さんたちも、制服に身を包み誰にも内心を覗かせない完璧な営業スマイルを提供するデパートメント・ストアとは違い、ゴツゴツとした個性が光る。今は値段交渉も運転手さん任せだが、顔を売りこんでいけば、いずれ日々の料金交渉を楽しみながら季節の移り変わりや市場の需給バランスを実感できるようになれるのではないか。そんな期待も抱かせてくれる。
気になる値段だが、カイロが日本と比べてべらぼうに破格かというと、そうでもない。旬のもので供給が多いときは「安いなー」と唸らされるときもあるが、ちょっと季節が違ってきたり、そもそも輸入モノだったりすると、日本の田舎のほうが安く手に入るものもあるように思う。そんななか、季節を問わず安値で買えるのが、エジプトのパン、アエーシュだ。6枚で1.5エジポン(約30円)なんて、嬉しすぎるではないか!しかも、これがアツアツで食べると旨いこと!!我が家でも朝食はもっぱらアエーシュになっている。なんでも、国民の主食であるパンには政府が多額の補助金を拠出していて、需給バランスの変動に関わりなく常に定額・廉価で販売するのだそうだ。以前、政府が補助金を削減して価格を上げようとした際には、街で暴動が起きたそうで、政府としても手をこまねいているらしい。この国もまた、グローバリゼーションに巻き込まれ、市場開放をせまられ、国際競争力をつけろと企業の尻をたたき、政府の市場への介入に抑制的であれとの強い指導を国際機関から受けている。「補助金削減」という外圧と、「国民を飢えさせない」という内政上の至上命題の緊張関係が、政権が独裁的性格が強いだけに、この国では一層深刻であるように見える。
それから、今回の買い物で目をひいたのが、アーティチョーク。日本では高級食材屋を飾るこの野菜が、1個1.5エジポンだから、約30円。僕自身は、タケノコみたいな不思議な味のこの野菜は、「一回試せたから、もういいかな。」というのが正直なところだが、好きな人にはたまらないお値段なのではないだろうか?
もう一つ。やはり日本ではなかなかお目にかかれないのが、肉の「姿売り」!犠牲祭のときなどは、山羊の喉をかき切って血を抜く、イスラーム流の屠殺を街のあちこちで拝めるらしいが、さすがに平時のスークでは、そこまではいかない。それでも、肉屋さんでは、鳥も山羊も、見事に生きていらしたときのお姿を偲ぶことができ、それがゆえに「生かしてくれてありがとう」という、感謝の念が自然と湧いてくるのである。山羊さんの頭部は、まだ生きていらしたときのぬくもりが残っているかのような、そんな表情のように見えた。2歳の娘にスーパーで脚色される前のむきだしの食物連鎖を実感させることができるのは、個人的には大変よきことと思っている。
最後に鳩の話。鳩はエジプトの名物料理で、典型的メニューとしては姿焼きとご飯を詰めた「マハシ」とがある。今回は、モハンデシーン・エリア、レバノン・スクエアすぐ傍の"FARHAT"というお店で食べてみたが、鶏肉ほどモソモソ感がなく、香ばしいサクサク感が嬉しい。難点を言えば、骨が多くて、いちいちよけて食べないといけない点だが、僕にとってはそれを差し引いても週に1度は食べたい味だ(妻はそうでもないらしい)。この鳩の出所はといえば、もちろん公園を歩いているのではなく、ちゃんと専用の巣箱で育った巣立ち前の雛鳥。以前、テレビアラビア語会話でも紹介されていたので知っている人も多いと思うが、白い円錐状の寺院のような建物に何百箇所も穴が開けられているのが、この巣箱で、母親鳩はこの穴から室内に入り、内部に同様に空けられた数百の巣穴に巣をつくり、せっせと卵を産み、雛を育てる。さて、いよいよ大空へ羽ばたくぞ!と勢いをつけた瞬間に、人間様の胃袋へと運ばれていくという訳だ。雛を食べるという行為については、一抹の罪悪感がないでもないが、「これも長い時間培われてきた大事な文化だ」と考える理性と、「とにかく旨いからいいではないか」という本能の両方に押しつぶされて、一瞬よぎる罪悪感は抹殺されてしまうのだった。
エジプトに来る人たちに、オススメしたい味である。
エジプトの地を観光で訪れた人のほとんどがピラミッド、考古学博物館とならんで、このグラン・バザールを訪れる。土地の商売人と難儀な交渉をしながらみやげ物を買う喜びに浸るのみならず、14世紀以来のたたずまいを残した「生きた伝統」がもつ空気に異国情緒をかきたてられるようである。
そんなハーン・ハリーリに、僕も過去の出張時をふくめて何度か足を運んでいたのだが、こうして生活者として土地の人のガイドで入り込んでみると、また違った感覚がめばえてきて面白い。なにせ、この日のメイン・イベントが「ピザを食べる」というのだから、歴史のドラマに思いを馳せるとかそういった類のロマンチシズムとは別の趣だ。(イスラム文化の中心でどんなピザかいな?)といぶかしく思いながらついていったお店で出てきたものは、パン生地の中に肉やらチーズやらをつめたもので、名前をフィティールという。X先生曰く、一説にはこれが西洋のピザの源流とのこと。ひとしきりしょっぱい系の具材を楽しんだ後は、生クリームやレーズンなど甘い素材を詰めた甘フィティール。これはなんとも旨い食べ物で、モロヘイヤや鳩料理と並んでエジプト三大料理と称してもバチはあたらない。
お腹をふくらませた後は市場散策。金細工・銀細工のお店、螺鈿のお店、ファラオニック・エジプトのみやげ物屋さん、スパイス屋さん、カフェなど、さまざまな店が軒を連ね、商売人が複数の言語(もっぱら日本語と中国語)を駆使して客引きに精を出す。かつて何度か訪れた際にも聞こえてきた懐かしい日本語のフレーズ、「バザールでゴザール」を唱える化石のような客引きもいて失笑を誘う。X先生御用達の銀細工屋では、気前の良い店主が娘の沙羅のためにスカラベ(フンコロガシ)のネックレスをプレゼントしてくれ、その後の旅道中で沙羅はずーっとフンコロガシをなでさすることとなった。
スパイス屋さんでは、一度見てみたかった「乳香」という香料と遭遇したが、X先生がエジプトで売られている乳香はクオリティが良くないので、ドバイあたりで買い求めると良いと言うので、買うのはとりやめにした。やはり、シバの女王のイエメンまで行かないと上等な品には出会えないようだ。
ひとしきり市場をそぞろ歩きしたところで、オープン・エアーの喫茶店に腰を落ち着け、水タバコをくゆらせながらアラビアコーヒーを啜った。酒はなくとも人は高揚し、楽しく語らい、友情を深めることが出来るということが、アラブの喫茶店(マクハー)の空気に浸ってみると、実感できる。華やいだ、実に楽しい時間が流れる。
エジプトに来る1月ほど前、盲腸で入院した。切らずに抗生剤の点滴で散らしていたので、いたずらに入院期間が延びてしまい、ヒマにまかせてエジプトが生んだノーベル文学賞受賞者ナギーブ・マフフーズの名著『バイナル・カスライン』(二つの城の間で)を読了した。英国支配からの独立運動激しい19世紀末のハーン・ハリーリが舞台のこの作品を読んだ人なら誰でも、この市場を訪ね、2階、3階の壁にしつらえられた木製の窓、マシュラビーヤなるものを確かめたくなるはずだ。主人公一家の女性たちは主の厳しい監理下で顔を見せて外出することを一切禁じられ、唯一マシュラビーヤ越しに外の景色を除き見る。しかし、その監視から逃れるように、若い娘たちはしばしば自分の姿を晒し、そして若い見知らぬ男に求婚されたときにはじめて、娘たちの冒険が発覚してしまうというのが、この物語のなかで重要なモチーフの一つになっている。いまも金・銀細工店の窓などに残るマシュラビーヤの向こうに、外出を禁じられた女性が、だらしなく水タバコをふかす僕らの姿を覗いていたりするものだろうか。そんな思いに囚われながら炭のつきの悪い水タバコを繰り返し吸い込んでいるうちに、激しい酸欠で意識が朦朧となった。
2歳の子どもがいて、この2月に第二子が産まれるということを考慮して、住居は日本人が多く住むコミュニティに近い場所を選んだ。ザマーレク(Zamalek)は、ナイル川に浮かぶゲジーラ島の北半分を占めるエリアの呼称で、古くイギリスの植民地統治期から高級住宅地であったらしい。ザマーレクの南東の付け根に位置するマリオット・ホテルは、当時の王族の宮殿を改築したもので、普通の高級ホテルとは違った落ち着いた風格を感じさせる。外国の駐在員家族がたくさん住むザマーレクは、車通りの多い7月26日通りをはさんだ北半分には外国の大使館やちょっと洒落たお店やレストランが並び、南半分は比較的閑静な居住区域となっている。東京に例えるとさしずめ青山といった風情だろうか。僕達も、年が明けた1月3日、南ザマーレクのマリオット・ホテルそばのマンションに居を落ち着けた。クリスマス・イブからのホテル暮らしの不便さ、窮屈さからようやく開放され、一息ついて、スーツケースに忍ばせた食材を使った数日遅れのお雑煮をいただいた。
ゲジーラ島の南半分は、一見すると砂漠の国エジプトとは思えない緑に覆われたエリアで、ゲジーラ・スポーティング・クラブという会員制の公園となっている。敷地内にはゴルフ場、テニスコート、プールのほか、トヨタカップにもよく出場するサッカーのクラブチーム、アル・アハリのグラウンドもある。年会費は少なくとも10万円単位と聞くから、この国の物価水準からすると、相当の金持ちしか会員にはなれない。日本では小市民のわれわれも、会員になろうなどと考えるには腰が引けてしまい、一人一日30ポンド(約600円)払って、週末だけ利用する。路上が車の洪水で危険きわまりないため、背に腹は代えられないと割り切って、中の遊戯施設で沙羅を遊ばせているという訳だ。
この公園の奥には、日本の援助で20年前に建てられたカイロ・オペラ・ハウスがある。赴任前にこの設計に関わった方の話を偶然聞く機会があったのだが、最初の設計図を見てエジプト当局がもっとイスラーム風にしてほしいと要求したため、モスク風のドーム形状となったと、不満そうに話してくれた。カイロの舞台芸術の中心地として、世界中の公演団を受け入れるこのオペラ・ハウスで、僕の所属する国際交流基金もときどき日本人芸術家を迎えて公演を行う。この1月19日に、トランペット奏者の曽我部清典さん、ピアノの阿部加奈子さんの公演を終えたばかりだ。
ザマーレクにちなんだ話題をもう一つ。ここには幼少期のエドワード・サイードが住んでいたそうで、故佐藤真監督の手によるサイードの伝記映画"OUT OF PLACE"のDVDを新居で見ていたら、見慣れたザマーレクの繁華街のショットに続いて、今は成功したビジネスマンが所有するフラットが映し出されていた。少年エドワードが両親と一緒によく遊んだというフィッシュ・ガーデンは、我が家から歩いて1,2分のところにある。『オリエンタリズム』をはじめとする著作でアカデミズムを超えてわれわれの世界認識に大きな影響を与えた偉大な知識人の足跡に近づけた気がして、そんな些細なことに胸がときめいた。
青山に例えてしまうと、いかにも外国人駐在員と裕福なエジプト人しか住んでいない浮き島のような印象をもたれてしまいかねないが、北ザマーレクの繁華街を離れて裏通りを歩くと、中産階級風情の人々の飾らない暮らしがあって、そんな人たちとの何気ない邂逅もまた楽しい。カイロに来て最初の金曜日(エジプトは集団礼拝の金曜日と翌日の土曜日が休日なのです!)、裏通りを家族で歩いていると、アパートの5階くらいの窓からロープでくくりつけた竹かごを地面にむけて垂らしているおじさんを見かけた。
何事かと思ってロープの先に目をむけると、10リットルは入るアルミのボトルを自転車の両脇にくくりつけた牛乳売りが、配達をしていたのだった。食材、衣料から子どものおもちゃまで何でも揃うスーパーがある地域に、昔ながらの顔の見えるサービスが活きている。
レストラン、喫茶店、ブティック、電気屋さん、本屋さんが軒を連ね、ひっきりなしの車のクラクションで耳がおかしくなりそうな7月26日通りにも、人間臭さが満ちている。牛乳売りと出合った裏通りを離れこの目抜き通りに出ると、7月26日通りにぶつかる小さな路地から歩道まではみ出して一斉に西の方角へ頭を垂れる男たちが見えてきた。金曜の集団礼拝をモスクではなく近所の集会所(路上)でやっているのだ。すぐそばまで近づいた頃にちょうど礼拝が終わり、男たちが一斉に立ち去りはじめたが、30cm以上もある歩道の段差を沙羅を乗せたベビーカーを持ち上げて運ぶ作業に、一人の老人が手をかしてくれた。
礼拝直後の清められた心に接して、ほっとして7月26日通りに目を向けると、エンコして動かなくなったバスを警官数名と一般市民が後ろから押していた。乗客数十名は車中で空ろな目を窓外に向けていた。
ちなみに、ジャジーラ(Jazeera)は「島」という意味で、アラビア半島の北側に突き出た島国カタールが世界に誇る放送局Al-Jazeeraによって誰もが知ることになったアラビア語だ。エジプト方言では「ジャ」を「ガ」と発音するため、われらが住まいとなった高級住宅地ゲジーラ(Gezeera)は、実はただの「島」という意味なのであった。
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