えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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村上春樹さんがエルサレム賞というイスラエル政府筋が運営する文学賞を受賞したことをめぐり、大阪のパレスチナ支援団体が村上さんに対して受賞を拒否するよう公開書簡を出したという報道に接し、強い違和感をもった。
① なぜ、この団体は、授賞する側ではなく受賞する側だけに抗議しているのか。
② この団体は、受賞者が村上春樹ではない、たとえば外国の作家・知識人であったとしても、果たして同じように書簡を出しただろうか。
イスラエルの国家としての暴力を問い、その当の国家が「社会における個人の自由」を讃える賞を出すなどという欺瞞を糾弾するという主張は、正当だろう。手紙の効力の有無を問う前に、だからこそ、彼らは当のイスラエルの主催者に対して、このような欺瞞は許さないという手紙を出すべきではなかったか。
また、受賞者も国民の信託を得た公人だったらば、まさに国家間の外交においてこの欺瞞を隠蔽することは許されないと糾弾することも許されただろう。しかし、私人である村上氏がこれを受けるか受けないかは、まぎれもない、彼の自由に所属する問題であった。それを、公開書簡という形式でもって公に問う必要はどこにあっただろうか。彼らが自分たちの主張が正当で村上氏を動かすことができると信じていれば、なにもこの問題を公に顕わにしなくともよく、800の署名を集めようと躍起にならずともよく、ただまっすぐ、本人に手紙を郵送すればよかったのだ。相手が同じ日本人だから、同族とのしての情に訴えようとでも思ったのだろうか。だとしたら、そこには、個人の選択の自由とそれに伴う責任ということに対する、認識の甘さがあるのではないか。ガザで1000人を超す人命が奪われた直後にこの賞を受け、授賞式に赴くことを全き自由でもって選択し、その選択がもたらすであろう結果に対する責任を負うのは村上氏自身である。彼らが公開書簡であげつらっているような批判がありうべきことなど、当人は百も承知なのである。そのうえで、受賞を決めた村上氏を、なぜに公を語って引き止める権利があると、彼らは考えたのか?自分たちこそが正義を独占的に語っているのだという錯誤があったのではないか。
今日、新聞報道で、村上氏の受賞スピーチの概要を知った。
「作家は自分の目で見たことしか信じない。私は非関与やだんまりを決め込むより、ここに来て、見て、語ることを選んだ」
「壁は高く勝利が絶望的に見えることもあるが、我々はシステムに利用されてはならない。我々がシステムの主人なのだ」
賞を与える側にとっては心地よくないスピーチだっただろうし、見方によっては賞を与える側に対して失礼ではないかとの意見もあるやもしれない。しかし、まぎれもなく、この賞を受け、そして現地に乗り込んで賞を受けるという選択を、村上氏は責任もって行ったのだ。賞を辞退するというのも一つの見識だろうが、こうして出かけていって、手を差し伸べる相手を言葉で切りつける勇気のことを考えると、村上春樹という人の人間としての強さを感じずにはいられない。それは、「自分だったらどうしたか」、と胸に手をあててみたら、よくわかることだ。
ちなみに、過去の受賞者のアーサー・ミラーも、スーザン・ソンタグも、スピーチでイスラエルを批判したと言うが、それは当人は現場にいないビデオメッセージだったという。村上春樹は、わざわざ出かけていって、その場で、相手を批判した、おそらくははじめての受賞者となったのである。
一人で責任を引き受ける、ということの意味を考えさせられた。
群れるな。
もたれあうな。
自分自身の主人たれ。
そういう声が聞こえてきた気がした。
① なぜ、この団体は、授賞する側ではなく受賞する側だけに抗議しているのか。
② この団体は、受賞者が村上春樹ではない、たとえば外国の作家・知識人であったとしても、果たして同じように書簡を出しただろうか。
イスラエルの国家としての暴力を問い、その当の国家が「社会における個人の自由」を讃える賞を出すなどという欺瞞を糾弾するという主張は、正当だろう。手紙の効力の有無を問う前に、だからこそ、彼らは当のイスラエルの主催者に対して、このような欺瞞は許さないという手紙を出すべきではなかったか。
また、受賞者も国民の信託を得た公人だったらば、まさに国家間の外交においてこの欺瞞を隠蔽することは許されないと糾弾することも許されただろう。しかし、私人である村上氏がこれを受けるか受けないかは、まぎれもない、彼の自由に所属する問題であった。それを、公開書簡という形式でもって公に問う必要はどこにあっただろうか。彼らが自分たちの主張が正当で村上氏を動かすことができると信じていれば、なにもこの問題を公に顕わにしなくともよく、800の署名を集めようと躍起にならずともよく、ただまっすぐ、本人に手紙を郵送すればよかったのだ。相手が同じ日本人だから、同族とのしての情に訴えようとでも思ったのだろうか。だとしたら、そこには、個人の選択の自由とそれに伴う責任ということに対する、認識の甘さがあるのではないか。ガザで1000人を超す人命が奪われた直後にこの賞を受け、授賞式に赴くことを全き自由でもって選択し、その選択がもたらすであろう結果に対する責任を負うのは村上氏自身である。彼らが公開書簡であげつらっているような批判がありうべきことなど、当人は百も承知なのである。そのうえで、受賞を決めた村上氏を、なぜに公を語って引き止める権利があると、彼らは考えたのか?自分たちこそが正義を独占的に語っているのだという錯誤があったのではないか。
今日、新聞報道で、村上氏の受賞スピーチの概要を知った。
「作家は自分の目で見たことしか信じない。私は非関与やだんまりを決め込むより、ここに来て、見て、語ることを選んだ」
「壁は高く勝利が絶望的に見えることもあるが、我々はシステムに利用されてはならない。我々がシステムの主人なのだ」
賞を与える側にとっては心地よくないスピーチだっただろうし、見方によっては賞を与える側に対して失礼ではないかとの意見もあるやもしれない。しかし、まぎれもなく、この賞を受け、そして現地に乗り込んで賞を受けるという選択を、村上氏は責任もって行ったのだ。賞を辞退するというのも一つの見識だろうが、こうして出かけていって、手を差し伸べる相手を言葉で切りつける勇気のことを考えると、村上春樹という人の人間としての強さを感じずにはいられない。それは、「自分だったらどうしたか」、と胸に手をあててみたら、よくわかることだ。
ちなみに、過去の受賞者のアーサー・ミラーも、スーザン・ソンタグも、スピーチでイスラエルを批判したと言うが、それは当人は現場にいないビデオメッセージだったという。村上春樹は、わざわざ出かけていって、その場で、相手を批判した、おそらくははじめての受賞者となったのである。
一人で責任を引き受ける、ということの意味を考えさせられた。
群れるな。
もたれあうな。
自分自身の主人たれ。
そういう声が聞こえてきた気がした。
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