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忙しさにかまけて、まだ本屋にじっくり居座る時間がもてない。
近所に洒落た内装のDiwanという本屋があって、週末家族で散歩した折に何度か立ち寄ったが、本の数やジャンルは限定されている。アラビア語の書物は到底読めるレベルではないので、専ら英語の書棚を見てまわるのだが、日本の書店のように平積みされた旬の本はほとんどないなか、唯一数十冊が平積みされているのを発見した。Alaa Al Aswanyという作家がアラビア語で書いた、Yacoubian Buildingの英訳がそれだった。世界の20言語に翻訳され、現代アラビア語小説で最も成功した小説という宣伝文句がついていて、背表紙の書評抜粋にはこのように書かれていた。
「魅惑的かつ論争的・・・現代のエジプト社会と文化を驚嘆すべき筆致で描き出している。」(New York Review of Books)
「アラー・アル・アスワーニーは勇敢で率直な社会批評家だ。・・・Yacoubian Buildingはカイロの縮図-闘技場、監獄、迷宮、人間性がかろうじて救済される難破船-である。」(マリア・コリア、Times Literary Supplement)
カイロの喧騒に呑まれて日々が過ぎていくなかで、もしここで評されているような小説に出会えたとしたら、読後にはカイロという大都会を理解するとっかかりをたくさんもらえるのではないかと期待して、ページを読み進めた。
小説は湾岸戦争期(90年代初頭)のカイロ繁華街のフラットが主舞台で、ここに住む個性的な住人たちが重層的に織り成す人間ドラマとなっている。中心階には富裕な貴族やブルジョアが生活している一方で、屋上は貧困層がバラックを建てて占有するというようなカオティックな設定のなか、様々な個性的なキャラクターが登場する。主人公の一人、落ちぶれた旧貴族は、生涯結婚せず色恋を楽しんでいたが、ある日恋人に裏切られ妹の大切にしていた指輪を盗まれたことをきっかけに、妹からこっぴどい仕打ちを受け、財産を失いかける。そんなとき、ひょんなことから飛び込んできた若い女性と純粋な恋に落ち、老齢にして本当の愛を獲得する。また別の設定では、幼少期に多忙な親の愛を受けられず、家庭教師との間でホモセクシュアリティに目覚め、成人後「経済的支援」で家庭持ちの貧しい南部男の愛をつなぎとめるエリート・ジャーナリスト、という屈折したパーソナリティも登場する。
そして、たくさんの登場人物のなかでも作家が最も紙面とエネルギーを注入して描くキャラクター、タハ・シャズリは、フラットのドアマンの息子で、日々住人の遣いっぱしりで小銭をもらう低い身分でありながら、持って生まれた才能と努力で高校を最優秀の成績で修了する。しかしながら、露骨な社会差別に警官になりたいという進路を阻まれ、挫折感を抱えて宗教的原理主義に魅了されていく。貧しくとも清貧さと勤勉さを大切にし、同じ価値観を共有する恋人に恵まれ、そして努力を積んで社会に貢献する人物になろうとする少年期から、社会に裏切られ恋人の裏切りに会う過酷な体験を経て、カイロ大学に入学する青年期までのタハの成長の足跡が丁寧に、魅力的に描かれている。大学は自家用車を乗り回す裕福なボンボンと、地方出身者を中心とした貧乏学生とに二分されていて、二者は決して交わることがない。後者はイスラームの教えに反するとして物欲に溺れる前者を憎み、まとまったグループとしてイスラーム原理主義者の拠点となっているモスクに吸い込まれていく。タハもまた、自分を裏切った「カイロを支配する者たち」の腐敗を憎み、そんな間違った社会を正したいと願うようになっていく。時は湾岸戦争。エジプト政府は、多国籍軍のイラク攻撃を支持し、それに抗議するイスラーム主義者の組織的活動を弾圧していく。タハもまた官憲に拘留され、暴力と辱めを受け、権力に対する復讐心を燃え上がらせるのだが、その契機をとらえた組織上層部はタハを組織内の戦闘集団に組み込み、いよいよタハはジハードを敢行するに至る。
この作品には、カイロという街、エジプトという国が、一握りの金を握る権力者たちと金のない大多数の人民とに二分され、前者が全てを支配するという構図が明確に設定されていて、その理不尽に対する作家の怒りが全体を貫いている。清貧な暮らしを望みはすれど、それでは生活が立たず、結局、上から権力を行使する者たちに屈せざるを得ない、そういう大部分の市民の気持ちを代弁したということが、この本の圧倒的なセールスとなって現れているのだろうか。運転手さんなど、自分の身近にいる「カイロ市民」と話していても、道路の大渋滞から、病院など公共サービスの敷居の高さと怠慢、そしてインフレで苦しくなる一方の生活状況に対する怒りが口をついたら止まらないことがある。それらをおおらかに笑ってやり過ごすエジプト人の国民性をもってしても耐え難い負の圧力が、日に日に強まっているかのようである。こうした感覚、感情の本当のところは、強い円をもって束の間軒下を借りる僕たち日本人には分かりえないものだ。作品が真実を描いているかどうかという問題とは別に、異例の数の読者を獲得したという事実が、作者の設定する構図で社会を眺め、権力の理不尽さに憤りたい多くの市民がいること、そしてその市民感情を引き起こすに至る政治社会状況が現に存在することを示しているように思われる。
他方で、この小説が文学としてどのように評価されるべきか、個人的には留保をつけたい。第一に、「富裕層による寡頭支配」という構図設定そのものに作者のイデオロギーの臭いがする。よしんばそれが、社会を俯瞰した場合に真であるとしても、作品のある登場人物が完全なる支配者性を仮託され、別の登場人物は純粋な被支配者であるような描き方は、文学がもつ隠喩の喚起力とは対極をなすものである。タハ・シャズリ青年が権力に踏みにじられ、イスラームの力を背に復讐を果たすまでの物語は、読み物として惹きつけられるとことはあるが、現代政治におけるイスラーム過激主義の問題をあまりに単純化して文学のなかに持ち込んだ感がある。タハ青年の辿った道は、一人の人間が宗教に救いを求める数多ある道筋の一つのパターンとして実際にありうるとは思うけれども、文学である以上、タハ青年の生き方の提示によってむしろ、その他の「数多ある道筋」の方にこそ読者の想像力を向けさせることが必要だったのではなかろうか。ホモセクシュアリティの問題にしても、イスラーム過激主義同様、なぜこの作品で社会的マイノリティのエッセンスだけを抽出したようなキャラクターを次から次へと出す必要があるのか、その理由づけが不明である。権力に蹂躙・翻弄される一般市民のことを描きたいならば、わかりやすく極端な個性に走るよりも、凡庸な個人の微妙な心の振幅をこそ描くのが文学ではないか。そう思うと、この作品が先の書評が言う「現代のエジプト社会と文化を驚嘆すべき筆致で描き出している」ものであるかどうか、疑問なしとしないのである。
さはさりながら、これがカイロっ子に広く読まれる理由はなんとなく想像できるし、一外国人がカイロ社会の入門書として、できるならば良質な社会評論と一緒に読んでみても、得られるところが少なくはない。
なお、Yacoubian Buildingは2006年にマルワーン・ハーミド監督によって映画化され、同年のパリ・アラブ映画ビエンナーレでグランプリを受賞している。日本でも国際交流基金が上映し、この3月24日にも再上映する予定。
僕自身は観る機会を逃しているので、映画に対するコメントはできないが、原作の弱さがどのように現れているか、後日DVDで観てみたいと思っている。タハ青年が原作同様に描かれ、そしてヨーロッパで評価されているとすると、Alaa Al Aswan氏がもしかすると肯定したかったかもしれないタハの過激主義への傾倒を、欧米世界はネガとして受け取り、「イスラーム世界」の飼い慣らしの肥やしにしたかもしれない。果たしてそれが作者の意図したことだったかどうか。
1月末、次席交代の挨拶に行った際に国際交流基金への参加要請を受け取ったのだが、会期中(2月27日~29日)に出産予定日(27日)が被っているという専ら個人的都合から、どの程度の協力が可能か考えあぐねていたのだった。
というのも、ブースでの組織・事業紹介のほか、ステージでのパフォーマンスなども期待されており、ギター1本もって歌うこともやぶさかではないという、持ち前の出たがり精神が頭をもたげかけたものの、いつ妻が「来た来た」と言い出さぬとも限らない不安を思うと、そのような色気は吹きとんでしまったのだった。
そこで、自分が現場にいなくとも、事務所のスタッフが自前でやれる範囲のアクティビティーで、且つ単なる組織紹介ブース以上に面白いことを考えることとし、折り紙と凧作りのワークショップを企画した。凧作りは、2月初旬に招いた大橋栄二・瑛子ご夫妻からいただいた免許皆伝を頼りに、会期前日にみんなで1時間程度練習した。折り紙も、オプションを拡げすぎるとボロが出るので、あらかじめアイテムを限定して、やはり2時間程度、みっちりと練習した。選んだアイテムは、鶴、キャンディボックス、風船、あやめ、カエルの5つ。折り紙に強いY職員が「比較的簡単」といって選んだピースだったが、なかなかに複雑なパートがいくつかあって、頭をひねりつつなんとか仕上げることができた。凧も折り紙も、そうした準備作業からしてすでに、笑いの絶えない楽しい時間が流れた。
3月23日土曜日、朝から妻に兆しがあり、昼過ぎから弱い陣痛が始まった。
第1子のときと比べてあまりにも微弱であったため、妻は日本人会に注文していた豆腐をとりに行き、のんびりと僕と長女の昼食を作り、午後3時頃には客人を迎えお茶したりしていたが、念のためと思って4時過ぎにドクターに電話。とりあえず来いと言われ、休暇中の運転手さんを呼びつけ、病院に到着したのが午後5時。主治医のDr.ネヴィーン(女医)の到着を待つ間、アシスタントのDr.アイマン(男医)の診察を受け、まだまだ時間がかかりそうということで、とりあえず入院する個室を確保してアドミッションの様式に必要事項を書いて提出。この時点では出産が何時間、いや何日後になるのか、はたまたまだまだ先のことと判断されて一旦家に帰されやしないかといったもろもろについては、まったく知りえなかった。
エジプトで出産するという話を日本で身内や知人にしたときの反応はさまざまだったが、積極的応援派は少なかった。これは出産に限らずだが、いわゆる途上国の医療サービスに関する漠とした不信感というものは、少なからず我々のなかに染み付いているもののようである。かくいう僕ら夫婦だって、揺るぎない自信をもって決断したかというと、決してそうではなく、立て続けに3人くらいから再考を促されたりすると、「たかが出産、されど・・・」なのかなと思い直して夫婦会議をしたりはしたものだった。
そんななか、上司の知り合いでカイロで出産予定の人がいるという紹介を受け、その人と妻がメールのやりとりをはじめたり、10年ほど前にカイロで出産した職場の先輩の奥様からも激励のメールをもらったりして、カイロにはしっかりしたお医者さんと施設があるから心配には及ばない、と最終的には得心し、妊娠8ヶ月に届かんとするクリスマス・イヴに、お腹の突き出た妻と、まだ乳離れしきっていない長女とともに、カイロの地を踏んだのだった。
カイロに着いてみると、事前にメールでやりとりしたUさんの他に、1月予定日のYさんという日本人もいらっしゃることがわかり、それぞれ別のクリニックに通っているというので、我々も両方のお尻に金魚のフンをして、いい方を選ぼうということにした。
その結果選んだのが、モハンデシーン地区にクリニックを構えるDr.ネヴィーンと、Dr.ネヴィーンがいつも出産に際して使用するEl Nada病院だった。ローダ島(ナイル側に浮かぶもう一つの島)に位置するモダンで新しい病院で、受付を中心に英語を話すスタッフを多く抱えている。入院用の個室はシンプルなシングル・ルームにはじまって、立会人用に別部屋があり、フラットTVなど贅沢品で埋め尽くされたRoyal Suiteまで、利用者の経済状況に応じてクラスを選べるようになっており、料金的には1泊4000円程度から3万円までのヴァリエーションがある。我々は、1st Class Luxという一泊7000円くらいの部屋を選んだ。リモコンで高さ調整のできるベッド、立会い者用ソファベッド、14インチくらいの普通のテレビ、お湯の出るシャワーがついていて、不自由感はまったくない。
妻のほうは、家では20分間隔で始まっていた弱い陣痛が、移動の車中あたりからパタっと止まり、病院でも7時頃まで陣痛を促そうとして部屋のなかを歩き回っていた。それが7時半の検診で子宮口7cmまで開き、経産婦はここからが早いことが多いということで、8時頃、妻は移動式分娩台に載せられて、階下の分娩室へ運ばれていった。長女のおむつ交換に追われていた僕は、遅れて追いかけたが、妻がどこに運ばれたのやらわからず、5分ほどいろいろな人に聞きまわって、ようやくDr.アイマンを見つけ中に入れろと苦情を言い、防菌服に着替えて分娩室に合流。娘の沙羅は入室を断られ、運転手のサーメハさんに面倒をまかせることに急遽なってしまった。このへんの急展開は、前もってドクターや病院側とよく話をつめていなかったせいでちょっとスリリングだったので、今後El Nadaで出産を考える人は気をつけてほしい。
分娩室に入ってから出産まではものの1時間。驚異的安産に一番驚いていたのは、妊婦本人だった。カイロ在住で日本で助産士をされていたXさんが様子見に来てくれた時には、いよいよいきみ始めるぞ、とういタイミングで、我々も無茶をお願いして立ち会ってもらうことになり、こうして8時59分、スルリと我が次女は生まれ落ちたのだった。分娩室への移動だけはドキドキさせられたが、ドクターの腕も保障済み、終始安心感をもって臨むことができた。
安産だったということを差し引いても、カイロでの出産については、英語でのコミュニケーションに大きな不安がない限り、それほど不安がることもない。というのが、実体験をくぐりぬけた者の感想である。
本日、病院近くの保険所より、アラビア語で書かれた出産証明書をもらい、エジプトでの出産という一事業をなしとげた充実感がやってきた。残念ながら当地は血統主義のため、次女摩耶はエジプト人になる可能性をもってはいないが、カイロ生まれというめったにない称号が彼女に生涯ついてまわることになる。
妻に産気づく気配がないことをいいことに、一旦帰宅し軽い食事をとってから、カイロ・オペラハウスへ向かった。ウード奏者、ナスィール・シャンマがオペラハウスの大ホールで聞けるというのは滅多にないことだと、土地の人たちも注目しているコンサートだった。イラク人としてイ・イ戦争、湾岸戦争という戦の世を生きてきた同氏が、三度目の戦争によって故郷を失った難民への支援の必要性を訴えて、このチャリティ・コンサートが企画された。そうした趣旨に共鳴して集まった人も、単純に音楽が好きで集まった人も見分けはつかないが、とにかく大ホールは目立った空席がなくよく人が集まっていた。
音楽そのものに関して事前に入ってくる情報が少なかったためだろうか、ソロ公演と思って来て、幕があいてビックリしたという人が周りに結構いた。今回は、ステージ上の演奏者を数えると、前列左からピアノ、コントラバス、カーヌーン、ウード(ナスィール)、サーズ、ラブラ、タンバリン。後列左からトランペット、サックス、クラリネット、ヴァイオリン、アコーディオン、チェロ、ドラム。計14名のビッグバンドだ。2004年12月の日本公演の編成は、ウード、カーヌーン、バイオリン、レク、ナイ、コントラバス、チェロの7名だったし、なにせアラブ人男性奏者は総じて体格がいいので、今回の舞台は段違いに壮観だった。金管とピアノで、音もずいぶんモダンに響いた。知人はチャリティ好き西洋人の好む編成にあえてしたのかもといった見方をしていたが、僕はよくわからない。
演奏のクオリティの高さは言うまでもないが、楽曲が素晴らしい。休憩をはさんで11曲が披露されたが、うち9曲はナスィール作とあった。どの曲も素晴らしかったが、個人的には"Good Morning Baghdad"と題された楽曲の美しい旋律に泣かされた。曲の背景はわからないが、イラク戦争とそれに続く混乱の日々と闘うイラクの人々へのナスィールからの応援歌だろうか。
前半部最後の楽曲、"Mawlana Galal El-Din El Roumy"は、13世紀のスーフィズムの聖人ルーミーに捧げる曲で、楽曲にあわせてWhirling Darvishesという名で知られている旋回舞踊を若くてかっこいいお兄さんが舞ってくれたのも華やかな趣向であった。ルーミーといえばむかし、単色茶系の衣装に不思議な帽子を被った人たちによる群舞のイメージを、何かの映画で見た。しかし、ここエジプトでは、僕がこれまでに見た限りでは、男性が一人で着脱可能なカラフルなスカートをはいて回転するというのが主流なのだろうか。探求してみたい領域ではある。
最後の楽曲、"She Complained"では、14人の奏者のほとんど全員がソロ回しをやったのだが、西洋楽器系の人たちはカイロ・オーケストラのメンバーも含むクラシック畑だからだろうか、正直退屈なソロが多くて飽きがきてしまった。しかししかし、それを差し引いても、わずか7百円で世界の頂点にいるウード奏者のアンサンブルを3時間も堪能させてもらえるのだから、なんと贅沢なことだろう。わりに単純なことで感動しがちな性ではあるのだが、この夜もまた「カイロに来れて、本当に良かった!」とシンプルに満悦し、夜のカイロの家路をゆっくり歩いて帰った。
カイロのお手伝いさん事情はといえば、デリーほどには楽園ではないものの、やはり衰えたとはいえまだまだ強い円パワーで、日本の物価水準からすると比較的安く雇うことができる。うちは2歳の娘がいて、さらにまもなく第二子が生まれるので、目下2人のお手伝いさんに交代で入ってもらって、家事全般を支えてもらっている。東京ではありえない万全のサポート体制といっていい。
我が家の強みはもう一つある。運転手さんだ。
僕の前々任から雇ってかれこれ10年以上、みっちり鍛えられ、そして友情と信頼を育んできた、最強のドライバーさん。ただ車を運転するだけじゃなく、買い物から切れた電球の交換、重たい荷物の運搬、そして子守り(!)まで、なんでも率先してやってくれる、気持ちの優しい機転のきくスーパーマンなのだ。「頼り甲斐」とか「男らしさ」という言葉にもっともふさわしい彼は、同時に僕自身のそうした資質についての自信を揺るがすところもあり、ときどき(適当なところでやめておいてくれ)と思わなくもない。
その運転手さんに案内されての買い物が実に楽しい。
僕が仕事に出ている平日は上さんがこの楽しみを独占しているが、先週土曜日、運転手さんに休日出勤してもらう必要があって、家族3人で揃って外出。用事を済ませた後、エジプト名物の鳩料理とスークでのお買い物をハシゴした。
当然、外国人料金が課せられるところを、彼が制して歩き、この街の適正な価格で買い物させてくれる。店員さんたちも、彼の「ボス」ということで、一応、一目おいてくれるのだから、楽しくないわけがない。買わないで陳列された野菜やら肉やらを眺めているだけでも、スーパーやコンビニにはない「市場」の原型を想起させてくれ、スークを後にするときには活力を注入されたような気分になる。売り子さんたちも、制服に身を包み誰にも内心を覗かせない完璧な営業スマイルを提供するデパートメント・ストアとは違い、ゴツゴツとした個性が光る。今は値段交渉も運転手さん任せだが、顔を売りこんでいけば、いずれ日々の料金交渉を楽しみながら季節の移り変わりや市場の需給バランスを実感できるようになれるのではないか。そんな期待も抱かせてくれる。
気になる値段だが、カイロが日本と比べてべらぼうに破格かというと、そうでもない。旬のもので供給が多いときは「安いなー」と唸らされるときもあるが、ちょっと季節が違ってきたり、そもそも輸入モノだったりすると、日本の田舎のほうが安く手に入るものもあるように思う。そんななか、季節を問わず安値で買えるのが、エジプトのパン、アエーシュだ。6枚で1.5エジポン(約30円)なんて、嬉しすぎるではないか!しかも、これがアツアツで食べると旨いこと!!我が家でも朝食はもっぱらアエーシュになっている。なんでも、国民の主食であるパンには政府が多額の補助金を拠出していて、需給バランスの変動に関わりなく常に定額・廉価で販売するのだそうだ。以前、政府が補助金を削減して価格を上げようとした際には、街で暴動が起きたそうで、政府としても手をこまねいているらしい。この国もまた、グローバリゼーションに巻き込まれ、市場開放をせまられ、国際競争力をつけろと企業の尻をたたき、政府の市場への介入に抑制的であれとの強い指導を国際機関から受けている。「補助金削減」という外圧と、「国民を飢えさせない」という内政上の至上命題の緊張関係が、政権が独裁的性格が強いだけに、この国では一層深刻であるように見える。
エジプトに来る人たちに、オススメしたい味である。
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