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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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在留邦人の知人の誘いを受けて、8人の希望者がグループを作り、二人のプロのタブラ奏者から指導を受けるレッスンが、昨日(6月22日)から始まった。

4月頃から案内をもらっていたので、とにかく楽器だけはそろえておくことにして、アタバ市場内ムハンマド・アリ通りの楽器街にあるシャムスというお店で一台、購入した。螺鈿の綺麗な装飾がボディーに張られているもので、250ポンド(約5,000円)だった。

レッスンは、まずタブラの部位の名称から開始した。
筒状で叩く面に向かって円すい状に広がるボディー部分を、その名もゲスム(ボディー)と言う。
ボディーにつながる叩く面を固定する枠を、シャンバル。シンバルと同じ語源か?
そして、叩く面を、ラアマ。今はプラスチックの市販品で交換も簡単だが、昔は魚の皮を使っていたらしい。面が緩むと火であぶっていたそうだ。

続いて、タブラで出る(出す)基本音3種類。
1.DOM(D):手を広げてシャンバルの縁に親指がかかるあたりからラアマの中心までを反動をつけて叩く。深くて重いベースの音が出る。
2.TAK:DOMの手から親指を内側に畳み込み、ラアマの中心よりさらに奥をめがけて、今度は手をそっと置く感じ。反動で弾ませないのがコツ。ドラムでいうスネアのような効果。
3.ES(E):薬指でシャンバルの縁付近のラアマをはじくようにして、乾いた高温を出す。この薬指のことをアーンマールというが、どうやらアーンマールを鍛えることが、タブラ奏者には求められるようだ。実際、普段使わない筋肉を使うことになり、手がつりそうだった。

そして今日は最初のリズム、マクスームの練習をした。
DTTDT が基本。ドン(半拍)タック(1拍)タク(半拍)ドン(1拍)タック(1拍)。これが、アラブ音楽でもっとも頻繁に使われるリズムだ。
単純なリズムだけれど、DとTの手の移動がもたついて、違う音を出し分けるのが意外と難しい。

ある程度慣れてきたところで、今度はEを加える。
DTETDET。ドン(半拍)タク(半拍)エス(半拍)タク(半拍)ドン(半泊)エス(半拍)タク(1拍)。

最後のタクを半拍に変えて、残り半拍を右のエスと左のエスで1/4泊ずつ叩く装飾音に変えると、さらにノリが出てくる。でも、エスはアーンマール(薬指)の力が必要で、先生が叩くようなカツーンと響く高音が出てくれないのがはがゆい。

あとはスピードが三段階。
ゆっくりがバアーア
中くらいがアアーディ
速いのがサリーア

初日はアアーディまでで精一杯。サリーアは次回にもちこしとなった。

これで1時間45分くらいの講義が終了。
計5回で
マクスーム No.1
マクスーム No.2
サイーディ
マルフーフ
ワルス
の5種類のリズムを覚えるとういプランになっている。

いい音を出そうとすると手の一部をシャンバルの固い部分にぶつけることになるので、終わったら右手が真っ赤にはれ上がっていた。来週の2回目を楽しみにしていたら、さっそく仕事が入ってしまった。

さてさて・・・
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先日、夏休みでカイロに来てくれた奇特な友人に頼んで、文庫になったばかりの若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』を持ってきてもらった。当時の一時資料や後世の研究者の分析のみならず、登場人物の人となりや来し方からの推測までをも総動員して、若桑さんは天正少年使節の真実に迫る。

文庫にして上巻600ページ弱、下巻500ページ弱の大著だが、上巻も最後になってようやく使節のヨーロッパへの旅が始まるのは、使節派遣に至るまでの日本の情勢や主要登場人物の言動の絡み合いを整理して読者に提示する意図からだろう。上巻を読み通して印象に残った点は、

1.当時の地方の殿様たちは、権力闘争のなかで自分の所領への経済的・軍事的メリットを多いに期待してキリスト教の布教を受け入れたが、うち大村・有馬・大友らは個人としてこの教えに共感して入信した。

2.ポルトガルのイエズス会、スペインのフランチェスコ会の間、またイエズス会の中でもポルトガル宣教師とイタリア宣教師との間には思想上、政策上の差異が際立っており、イタリア人の文明的洗練に比して、ようやくイスラーム勢力との戦いを退けたばかりのイベリア半島勢は、認識の上でも方針の上でも、西欧優位アジア蔑視の立場が明瞭であった。

3.前者を代表するのが巡察使のヴァリリャーノ。後者が前任のポルトガル人カブラル。ヴァリリャーノは実に賢人であり、異国での布教にあたりその土地の人々の思想、信条、文化、規範に自らを可能な限り適応させることを旨とした。当時の世における認識としては最高度のものであったと言える。

この第三の点について、以下にヴァリリャーノの考えをよく示すくだりを抜粋した。

ここで不足しているのは神父です。だからこそ、日本での布教には日本人の助けを得ること(日本人神父をつくること)がほかのどこよりも必要なのです。(上巻p. 205)

ヴァリリャーノは日本だけではなくインド、フィリピンなどすべての視察官なので、とくに日本語ができたのだはなかったが、彼の弟子マッテーオ・リッチに指示したように、宣教師はまずなによりもその布教する国のことばを知らなければいけないと固く信じていた。(上巻p. 207)

「国は異なり、風習は異なる。つまるところ、われわれの風習もまたヨーロッパという小さな地域にあわせてできたものにすぎないではないか。」これはこの時代の西洋人としてはまことに驚くべきことばである。彼がたとえ何者であったにせよ、このことばは賢人のものである。(上巻p.247)

ヴァリリャーノは日本の少年を「西洋人」にする気はなかった。「東西を知る人間」にすることが基本的な理念である。キリスト教思想を知るには、それが出てきた西洋の思想を知るべきである。しかし、それを日本のなかで日本人に語るには、禅僧などと同等の日本文化や思想の知識やことばを知らなければならない。(上巻p.296)

だいじなことは、すでに成長した木に接ぎ木をしたのが、成人改宗者であるとすれば、少年は、キリスト教がこの日本という大地に蒔かれて、はじめてそこで「採れた初穂」なのだ。布教以来30年、いまやっと初穂が採れた。だから少年をローマに送るのである。(上巻p.305)

日本に学校をつくるばかりでなく、知的な教育普及のために書物の出版が欠かせないと考えて、書物の印刷所をつくることを計画し実行した。(上巻p.309)

現地に教師を養成すること、指導するものはその地の言葉を解さねばならない、国や風習が異なるという相対感をもつ必要性、自国と外国文化の両方を知った人間こそがよい教育ができる、理屈ではなく感性で外国文化に共感できる少年期を大事にすべし、教育とあわせて出版がなされねばならない。

これらは、宗教の布教から離れて、いま、われわれがやっている国際文化交流やその一環としての日本語教育、日本研究の指針としてもそのまま当てはまる知見で、この商売をやっている者としてはとても面白く読んだ。

日本文化を他国に紹介するにあたり、自国文化優位の立場にたつのではなく、相手の文化をよく理解したうえで土地ごとの独自の受け入れ方を許容する姿勢が必要であり、自らが正しい日本を伝えられると過信することなく、その土地の人々のなかから、その土地の言葉で、その土地の文脈をふまえてやわらかく伝達できる教師を養成することが肝要である。

これらは、自分が国際交流を志した当初から先輩たちに教えられた考えと寸分も違わない。

絶対主義拡張期特有の圧力型の布教トレンドに対し、あくまで日本人を尊敬し日本に適合的な布教のあり方を常に考え実行してきたヴァリリャーノは、その信望の厚さの分だけ嫉妬の対象ともなり、それが彼が送り出した天正少年使節に対する後世の語られ方にも影響を与えてしまったという。

この先は、下巻を読んでのお楽しみ。また改めて、心にとまった文を書きおいてみたいと思う。

アラブ諸国のなかで、イスラエルと国交を結んでいる国が2つだけある。ヨルダンとエジプトだ。

エジプトの場合、1978年9月17日のキャンプ・デーヴィッド会談で、カーター米大統領の仲介のもと、ベギン・イスラエル首相とアンワル・サダト・エジプト大統領が和平合意に達し、それを受けて翌1979年に両国の間で平和条約が締結された。

中東を旅行する際、イスラエルの入管スタンプが押されたパスポートをもっていると、ほとんどの国で入国を拒否されるとういが、ヨルダンとエジプトについては、国交があるがために、こうした問題は起こらない。

サダトにとってみれば、1973年の第四次中東戦争で形式的には勝利し、シナイ半島を奪還したものの、国防・軍事に投じる支出増大が国の経営を圧迫し、国民の福祉や経済成長のために十分な投資ができないことが問題だった。ナセルの社会主義経済の弊害を除去しながらエジプトを国際経済に合流させていく流れを作るうえで、隣国イスラエルとの和平による頭痛の種の除去は、エジプト一国のことを考えれば合理的な判断だったと評価されることが多い。

国交があるというから、両国関係は穏やかで暖かなものかと思いきや、世論を眺めていると、そういうことでもないらしい。

2月29日のEgyptian Gazetteの記事、'Egypt's bestseller opposes cultural ties with Israel(エジプトのベストセラー作家、イスラエルとの文化交流に'NO')'を読んで、エジプト人が両国関係を「冷戦」(Cold War) ならぬ 「冷たい平和」(Cold Peace)と呼ぶ理由がわかった。

同紙によると、"Yacoubian Building"、"Chicago"の2つの小説をベストセラーにし、現代エジプト文学をリードするAlaa el Aswaniは、エジプト国際経済フォーラム主催のセミナーにおいてこう発言した。

「私のこの2つの作品のヘブライ語への翻訳は、エジプトとイスラエルの関係の正常化の結果としてありえるが、ユダヤ人の国家がアラブの土地を占領している間は私はこれを拒否する。」

国家同士は和平を結んだが、この国の多くの有識者や市民は、占領をいまいましく思い、文物が両国間を自由に往来するような普通の国交(ノーマライゼーション)を拒絶していることがわかる。

最近では、国の代表者でさえも、両国の外交関係を否定するような発言をして、物議を醸している。

昨今、メディアをにぎわしているのは、ファルーク・ホスニ文化大臣の国会答弁に対するイスラエルからの批判問題。国会において、エジプト中の本屋や図書館にイスラエルの本が溢れているというイスラーム同胞団所属議員からのコメントに反応して、ファルーク大臣は「もしもそのような本が存在していたとしたら、私は全て燃やし尽くしてしまうだろう。」と反論した。これを受けて、イスラエル政府およびアメリカのユダヤ系ロビー組織SImon Wiesenthal Centerが強い抗議を表明し、こうして事件はメディアで大々的に報道されることになった。

イスラエルはもちろん、各国の指導者の自国に対する発言に神経質で、強烈なイスラエル批判や自分たちのイメージを著しく貶めるような表現に対しては、必ず抗議を表明する。それにしても今回の抗議が特に激しいのは、ファルーク氏が松浦氏を次いで時期ユネスコ事務局長に選出される公算が高いという点も影響している。このように多言語の出版・文化を否定するような人物に、文明間の対話や相互理解を推進するユネスコのリーダーは務まらない、とういのだ。

イスラエルとパレスチナの和平への道は途方もなく険しいが、国交を結ぶイスラエルとエジプトの間の真の平和への道のりも、なかなかに厳しいものがあるようだ。
6月11日(水)、アーティスト、ムハンマド・アブンナーガさんが経営するNGO、ナフィザ・センター(ナフィザは「窓」の意)の紙作り工房を訪ねた。
CIMG2115.JPG

アブンナーガさんは、98年に国際交流基金のフェローシップを受け、日本で世界的和紙アーティスト伊部京子さんに師事。帰国後、自身も紙漉きから始まる作品制作を多数手がけ、いまやエジプトを代表するアーティストの一人だ。

その彼が、2007年7月18日号ニュースウィーク日本版「世界を変える社会起業家100」の一人に選ばれた。彼が作った廃材利用の紙漉き工房の活動が評価されたのだ。廃材の再利用というのも立派だが、働いている人のほとんどが聾唖の女性で、社会的弱者のエンパワーメントも同時に行っている。

CIMG2123.JPGバナナやハスの葉からの紙作りは、当初は不純物が多く混じり、ゴワゴワな手触りの残るものだったらしいが、同行してくれた事務所のGさんによると、1年前と比べると格段に製品としてのクオリティが向上したという。Gさん曰く、昨年基金が伊部さんを招いて工房で行ったワークショップの成果が出ているとのこと。現在はまだ市内の3店舗に紙をおろすに過ぎないが、こうしてクオリティを高めていけば、市場が開拓され、働く人たちの雇用の安定と働く喜びの確保へとつながっていくことが期待される。

Gさんが伊部さんのワークショップのことを思い出して、一人笑った。伊部さんはことあるごとに、CLEANLINESS(清潔)を叫び、いたたまれなくなった男性スタッフの一人が落ち込んで部屋から退出したほどだったというのだ。紙作りに限らず、ものを作るうえで、素材の美をフルに活かすためには、自分も作業場も素材もすべて綺麗にしておくことが大事みたいである。そうしてみると、ものづくりには技術が大事だが、精神のあり方もまた、とても大切なことであると思われてくるのである。

アブンナーガさんは、ナフィザを工房の職人とアーティストが集い、双方が創造的な刺激を受けて新しいものづくりをしていけるような空間にしていきたいと語り、来年、その一歩としての国際ワークショップを実施したいと夢を語ってくれた。文化やアートを通じた社会貢献の光り輝くモデルとして、これからも応援していきたい。
CIMG2104.JPG5月29日、カイロ新市街ヘリオポリスに建つ、1920代の古いフラットを訪ねた。
この家の持ち主、Ladislav Otakar Skakal氏は、どう見てもエジプト人には見えない。

聞くと、イタリア人50%、チェコ人25%、そして日本人25%という素敵なミックス。

それぞれのお国の調度品に囲まれた居間でお茶をご馳走になりながら、ドラマのような実話が語られる。


CIMG2092.JPG時は、1914年。パリ留学を終えた若き日本人女性MISUMOTO ITOさんは、客船に乗り、地中海からスエズ運河を渡って、帰国の途についていた。

そこで、第一次世界大戦が勃発。スエズ運河が閉鎖され、イトさんはフランスがエジプトに築いた運河の街、ポート・サイード(フランス流にはポール・サイード)で立ち往生を食う。イトさんは、時を同じくしてポート・サイードに逗留していたチェコ人男性と劇的に恋に落ち、そしてエジプトの地で夫婦として暮らすことになった。

カイロに移り住み、2人の男の子を得、そのうちの一人がイタリア人女性と結婚し、目の前にいるLadaislavさんが生まれた。

CIMG2093.JPG20世紀初頭に一人フランス留学する日本人女性というのは、相当に裕福で先進的教養に溢れた家に生まれ育ったに違いない。カイロの上流階級のサロンでも一際ファッショナブルに着飾ったおしゃれな女性として、記憶されているらしい。2つの世界大戦、王政の廃止とナセル革命という、激動の中東史を生き、50年代に亡くなったイトさんの生涯は、きちんと記録すれば、多くの人に読まれておかしくないはずだ。そして、孫のLadaislavさんが、いま、頑張ってその伝記執筆に取り組んでいる。

ただ、残念なことに、一次資料が足りない。聞くと、イトさんが日本の長崎の実家とやりとりしていたはずの手紙など、イトさんと日本をつなぐ証が記録としてほとんど残っていないのだという。Ladaislavは、長崎の原爆で家族との音信が途絶え、イトさんは絶望して自分の日本人としての文化的背景を抹殺したのではないか、と推測するのだが、事実ははたしてどうだろうか?

かつて、Ladaislavさんは長崎を訪ね、イトさんの足跡を調べようと試みたが、手持ちの情報があまりにも少なく、また、自信日本語ができないため、手がかりすらつかめなかったそうだ。

Ladaislavさんは、イトさんを主人公にした伝記が完成したら、次にはオーストリアと日本の血を分けた父のことを書き、最後に自分のことを書いて(自分が生きていたら)三代の家族史を編纂したいと意気込む。1920年代まで書き進めたイトさんの伝記は、イトさんのアイデンティティの根幹を成す日本時代の記録、そしてイトさんが外国に渡ってからの日本の家族との交信の記録なくして、果たして完成・出版の日の目を見ることができるだろうか?
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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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