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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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カイロ国際映画祭は後半戦に突入したが、今週は日本から研究者を招いてカイロで講演会をやっていたので、3日ばかり映画はおあずけ。

日本からお招きしたのは政策研究大学院大学教授の大野健一さん。国際交流基金が3年がかりで大野教授の著書、『途上国ニッポンの経済発展』のアラビア語版を作成して、今月中旬、ようやくShrouk社から出版することができたので、その出版記念として著者による講演を企画したのだ。

この本は、(90年代以降は長い長い停滞期にあるとはいえ)世界有数の経済大国に発展した日本の発展史を、いまだ経済指標的には先進国とは言えなかった江戸末期までさかのぼって紹介するもので、もともとが政策研究大学院大学に途上国から留学する大学院生向けに書かれた教科書である。そっくりそのまま輸出可能なものでは毛頭ないが、これから経済発展、そしてテイクオフを目指す国の政府やエリート知識人などに日本の発展モデルを参考にしてもらいたいとの狙いで、翻訳・出版を企画したのだった。

カイロ大学とアハラーム政治戦略研究所での2回の講演会は、学生を含めた多くの知的エリートたちに本の概略を紹介し、実際に手にとって読んでもらう動機付けができたので、成功だったと言ってよい。

むしろ興味深かったのは、では、途上国エジプトは、はたして経済発展できるのか、という問題に対する彼らの反応と、それに対する大野先生の感想だった。

特にリサーチャーに限定した小会合としたアハラームでのセミナーでは、エジプト側からは「政府はどこまで市場に干渉すべきか」といった抽象的議論が多くみられたのだが、これに対して大野先生は、「東アジアでは、そういった抽象論はもう全く行われていない。そうではなくて、個別具体的なセクター発展における政府と市場の分業のあり方を議論しなければ意味はない。」とおっしゃられた。そして、先生が最近深く関わられているエチオピアの産業政策を例に出し、そこではジョセフ・スティグリッツとツーカーで話が通じるスーパーに有能な首相のイニシアチブで、大きな国の将来ビジョン、それを具現化するためのロードマップ(マスタープラン)、そのマスタープランをより具体的な作業工程に落とし込むアクションプランの策定を行っていて、そのプロセスに対して東アジアモデルを参照するために大野先生の知見を求めているのだそうだ。大野先生がいみじくもおっしゃったように、エチオピアというと今も飢餓や難民といったイメージをもたれがちで、実際自分もそこから抜け出せていないのだが、いま、農業を基盤とした労働集約型の付加価値創出輸出産業の形成を目指して、皮革、花きなどのセクターで欧州等に輸出できるブランド作りに汗を流しているという。そして、「エジプトには、そういう具体的プランがありますか?」と問いかけた。

ここ10年来、エジプトはIMFと世界銀行による構造調整プログラムを立派に消化してみせ、財政赤字克服、国際債務解消、インフレの抑制、補助金行政の見直しなど、経済発展の基礎となるマクロの改革においては目覚しい成果を上げた(のだそうだ)。ところが、その後に続くべき製造業を中心とする産業が発展しない。20年前と変わらず、石油輸出、出稼ぎ労働者の送金、観光業、スエズ運河通行料という4部門が外貨獲得手段のほとんどを占め、他には国際競争力のある雇用創出型の産業はわずかしか形成されず、それが人口急増もあいまって、大量の若年失業者を産んでいる。

今日は、カイロ大学の助手や大学院生からこういったエジプトの経済の状況と産業政策のあり方について聞くインフォーマルな会をもったのだが、彼らによるとエチオピアがやっているような産業政策については聞いたこともないし、貧富の格差、公害、交通渋滞、インフレ、失業、汚職など相互にリンクする問題が山積しているし、政府の政策には透明性はないわ省庁のトップ交代などで政策の長期的継続性が保証されないわで、いまのままではブレイクスルーは見込めないと、異口同音に悲観的見解を述べていた。

日本と中東との知的対話を何年か続けてきて、そのなかで常に「日本の経済発展の教訓を伝える」というアジェンダが語られてきたけれど、大野先生がおっしゃるとおり、今後はより具体的な政策レベルでの対話が必要で、それはアカデミズムだけでなく実際の政策実行者との間でなされる必要がありそうだ。


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昨日は、がんばって2本の映画をはしごした。

1本目は、シリアからの"HASIBA"。タイトルの意味がわからぬまま見始めてすぐに、主人公の女性の名前だとわかる。第一次大戦から第二次大戦期にかけてのダマスカスが舞台で、男たちは抗フランス闘争、続いてパレスチナ防衛闘争へと次々と駆り出される時代。家事のみならず家計の切り盛りまで女ががんばらなければならない時代に生きる一人の女を追うという展開。

父から夫から義理の弟まで、とにかく次々と身内が死んでいくあまりの展開の速さに、観客もついていけない感じでいたのだが、かくして女だけになったハシーバの家にある日、フランスを支持する内容の記事を書いた記者をかくまってほしいという知人の依頼を受け、若いハンサムな男性を家に入れたときから、さらに歯車が狂っていく。未亡人ハシーバは、初対面からこの男に惚れてしまうのだが、なんと娘のザイナブも彼を愛してしまい、それを認めまいと制止しようとすると、失神してしまうありさま。結局、ハシーバは、強い嫉妬を押さえ込みながら、家長として家を守ることを優先し、ザイナブと彼の結婚を承認してしまう。この嫉妬がわざわいしてか、この後、さらに事態は悪化していき、ザイナブの夫はパレスチナを救うために家を出ていき、父親を失った息子は、軽食屋を営む裏で武器の密売をやっている男のパシリとなり、幼くして悪に手を染め始める。ザイナブは夫を失い息子の監督をザイナブに奪われ、やがて、発狂して、ハシーバが家にもちこんだ靴下工場の糸車を猛烈な勢いで日々、回し続ける。ザイナブの息子が二日間家にも戻らず学校にも行っていないことがわかると、ハシーバの精神の最後の糸が切れ、それと呼応するかのように、家の中庭に滔々と沸く噴水の水が枯れてしまう。意識を失って、石の噴出口に倒れこんで、出血死してしまう。中庭には、気が狂ったように糸車を回し続けるザイナブだけが残されている・・・・FIN。

作品のメッセージ云々の前に、ラストのシーンー突然吹き出し、その後急激に枯れていく泉、ハシーバの意識とともに回転しはじめる中庭の景色、糸車をまわすザイナブの狂気の目ーが次々とパンされていく映像は、ヒッチコックかはたまたインドのリティック・ゴトクの狂気の世界を思わせ、背筋が冷たくなる。理屈抜きのこうした不条理劇も、ときどき見ると新鮮な感じがした。

"HASIBA"が終了したのが8時50分。そこから急いで移動して、グランドハイヤットホテル内の映画館GOOD NEWSに着いたのが9時5分。9時開始の日本映画、『へばの』は既に始まっていた。前日にインド映画を見た一番大きなホールは、この日もエジプト映画に群がる数百人の群集であふれて、かたや『へばの』はさらに2フロア上の100人程度終了の小ホールに、20人程度が入っているのみ。やっぱり、国際映画祭としては、がっかりな光景と言わざるをえない。

作品は、デジタル映画部門のコンペに出品されたもので、日本では冬にポレポレ東中野でレイトショーとして封切られるようだ。六ヶ所村を舞台にして、結婚を誓った男女を描く。男は原発事故で被曝して、子どもをもちたいという女の夢をかなえられないと思い、ひっそりと村を逃げ出す。三年後、隣町に男が帰ってきたと知って出かけた女は、男が結婚して息子を一人もうけていることを知る。さらに後、やはり原発で働いてきた女の父の訃報を新聞で知った男は、久しぶりに女のもとを訪ねる。そこで語られる事実。男はある子連れの女と出会い、彼らと家族をもつことにした、ということ。女は一旦受け入れようとするが、帰り際に男を殴る、殴る、殴る・・・

その日、二人は車に乗って、あてどなくドライブするが、海の見える場所に車を止めて、交わった。男は原発に反対して東京にプルトニウムを撒くテロを計画するグループに加わっており、女も東京に連れていこうとするが、女は、「私は、ここにいる。」と拒絶。最終的に東京行きをやめた男を、仲間が射殺。女は、男との間で身ごもった子を産み、父が残した家で育てる。

古くて新しい問題。世界の問題に対して、男はその構造を変革しようとして冒険したがる。女は自分のいる場を受入れ、その制約のなかで強く生きようとする。答えは用意されていないが、「そうだよな、そういうものだよな、男と女の世の中って。」と納得させられる映画だった。

上映後、監督の木村文洋さんと主催者によるティーチ・イン。10人程度しか客は残っていなかったが、映画を学ぶ学生が中心で、対話からは映画に対する愛が感じられた。上映中は、やはり携帯がピコピコなったり、会場を出たり入ったりしたり、とにかくせわしないのだが、上映後のこの30分を共有できただけで、それ以前に抱えていたイライラがずいぶんと和らいだ。ある質問は、観客が飽きる前にカットを変えろというユーセフ・シャヒーンの有名な教えを引き合いに出して、木村さんの長回しは長すぎではないかというものだったが、木村さん曰く、自分のなかではこのくらいまでだったら観客は飽きないだろうというギリギリのラインがこのあたりだったので、おそらく文化の違いだろう、とのこと。上映中の携帯電話についても、最前列のおじさんの携帯があまりにも大きな着信音を鳴らし続けていたときには、みんなが声を上げて注意していたので、なるほど、長回し同様、許容度の違いか、と納得させられた。

いい映画なので、関東圏にいる人たちは、ぜひ見てください。28日、閉会式ではたして受賞できるかな?
だらだらと駄文を書き連ねていたら、ウェブがフリーズ!全文を復活させる気力はないので、手短に。

11月18日から28日まで開催中のカイロ国際映画祭。日本映画も出品されていることだし、アラブを中心に世界の作品をまとめて見れる機会なので、できるだけ足しげく通おうと思っていたのだけれど、突然寒くなりだして不覚にも風邪をひき、さらには後半からは日本から大学教授を迎えてのセミナーがあったりで、ほとんど見れそうもない。

それでもせっかくの機会だから、からだを気遣いながら、2本のインド映画を見に行った。インド映画に集中してしまうあたりは、インドに憑かれた僕の性なので、いたしかたないとしか、いいようがない。

1本目は、"Jodha Akbar"。ムガール帝国第三代皇帝アクバルが、侵略者+異教徒、すなわちヨソモノの支配者から、真のヒンドゥスタン(インド人の国)の王として善政を行い、人々の信望を集めるにいたるまでの歴史物語。ヒーローは、kaho Naa Pyar Hai、Misshon Kashmirのリティック・ローシャン。ヒロインのラージプート、ヒンドゥー教徒の王女、ジョーダ姫を演じるのは、ミス・ワールド、アイシュワリヤ・ライ。豪華絢爛、歴史絵巻といった様相。監督のアシュトシュ・ゴーワリカルは、大英帝国とインドの農民にクリケットをさせる奇想天外歴史フィクション"LAGAAN"で一斉を風靡、それ以降もシャー・ルク・カーンを起用して現代における愛国心とは何かを訴える"SWADESH"など、優れた作品を発表している。本作も、異教徒間の愛と共存というメッセージを、アクバルとジョーダ姫という歴史上の人物のストーリーに仮託して描き、かつ映画がエンターテインメントであることを忘れずに十二分に楽しませてくれる。インド娯楽映画の王道を行く快作である。

2本目は、"The Last Lear"。その名も、シェークスピア。
インド映画界の重鎮、名優アミターブ・バッチャンが、隠居して久しい老舞台役者を演じる。僕がインドを去ってから5年半がたつが、その間に役者の世代交代も起こっていて、この老俳優を説得して彼の映画に出させる若い映画監督は、僕の知らない新しい俳優が演じていた。老俳優の共演女優役は、プリーティー・ジンタ。この映画は、ボリウッドのトップスターを起用していながら、全編を通してセリフが英語で語られる。わずか5%程度、もっぱらスラングとして、ヒンディー語とベンガル語が使われている。内容もシリアスで哲学的なテーマを扱っているし、オーディエンスとしては市井のインド人ではなく英米などで活躍する印僑だけでなく世界の映画愛好者を狙っているように思われる。

残念なのは、せっかくのいい映画にお客さんがついていないこと。映画祭は一見立派なウェブサイトを立ち上げているが、一本一本の作品となると、シノプシスをまったく載せていないから、監督や役者のことを知らない限り、一般聴衆はどの外国映画を見に出かけるか、判断ができない。後日、うちの事務所スタッフが分厚いきれいに製本された映画祭の公式カタログを取り寄せてくれたのだが、当然、これは一般に販売、配布されていない。

昨夜の"Last Lear"は一回かぎりの上映で、集まった観客はわずか30人!上英後会場を出ると、次のエジプト映画見たさに数百人のエジプト人が行列をなしていた。作品をもってはるばるインドから飛んできたプロデューサーと二言三言言葉を交わしたが、いかにも寂しそうだった。外国映画に対するリスペクトのない国際映画祭、これいかに??エジプトだけに限ったことではないが、Internationalと名のつく催しを通して、いったい何を実現したいかを、文化事業を実施する人たちはマジメに考えないといけませんね。

もうひとつ。僕の前の列に座っていたエジプト人の若い男性は、上映がはじまってしばらくしてから、何度も携帯電話で声を抑えることもせず話し込んでいた。何度目かでブチきれた僕は、彼の方を叩いて、"Please stop talking on mobile, right?" そうしたら、彼のレスポンスは・・・・・
"Please do not striking my shoulder, right!!"
しばらく体内の血が暴れん坊になっていましたが、僕に叱られたのが気に入らなかったのか、それとも映画がつまらないと思ったのか、上映後30分で、席を立って、立ち去ってしまいました。オペラハウスでさえ携帯電話を切らない人たちだから、芸術鑑賞の仕方における文化の違いといってしまえばそれまでだけど、お国や世代を超えた最低限のマナーはありますよね、きっと。

11月18日から28日までの日程で、カイロ国際映画祭が始まった。
昨晩、オフィスでカタカタとコンピュータと格闘していると、ドドーンとボトムに響く音が連発し、外を見るとオペラハウスの方角に花火が舞っていた。

アラブ、中東諸国の作品を中心に、世界中の映画が集結。カンヌやヴェネチアのように映画人なら誰もが羨望する映画祭と比べるとさすがに格が落ちるようで、公開前の新作を出品してそこでの評判をバネにして公開に踏み切るといった戦略で臨んでいる映画人はほとんどいないように見受けられる。日本からの出品は、この夏に公開された日本・台湾・香港合作の『闘茶』(ワン・イェミン監督)が国際コンペ部門に参加、、Digital Feature Films部門のコンペに出品している"Good Bye"(Bunyo Kimura監督)、それから、
ドイツ・日本合作の『赤い点』(宮山真理恵監督)という作品の計3作。

アラブの作品はたくさんあるので、事務所のスタッフに推薦作を選んでもらいながら、時間をみつけて会場めぐり予定。

個人的に楽しみにしているインド映画もけっこうたくさん出ていて、特にオススメは、
LagaanやSwadesのヒットで代表的監督となったアシュトシュ・ゴーワリカル監督の新作"Jodha Akbar"(アイシュワリア・ライとリティック・ローシャンが16世紀ムガール時代にあったとされる異教徒間の真の愛を演じるのだそうだ)と、アミターブ・バッチャンがシェークスピア劇の老俳優を演じる"The Last Lear"。

カイロ在住のみなさん、映画を見に行きましょう!

前回のブログで紹介したバンド、Your Prince Harmingのメンバーで、大統領選に出馬した結果投獄されてしまったアイマン・ヌールの息子、Shadyと会った。前述の本"HEAVY METAL ISLAM"の内容を当地邦人プレスの友人に紹介したら、想像以上に関心をもってくれて、独自に取材を始めてくれたのだ。今日はShadyのインタビューをやるというので、ちゃっかり同席させてもらった。

同社のオフィスに現れたShadyくんは、なんと弱冠16歳。トップが上向きな感じだけど短くまとめたヘアースタイルは、今風とはいえ、メタルのイメージとは違う。体型は華奢で一押しで骨が折れそうな感じだが、話し始めたら、年齢のことを忘れた。この国の権威主義にたてついた勇気ある父の行動は、彼の逮捕を機に、10代の少年をなみはずれた哲学者に育ててしまったようだ。

ジャーナリスティックなセンスでは、「音楽に乗せて父の政治的挫折の無念を晴らす」といったコピーにのっかるようなストーリーが望ましいところだが、当人が語る物語はそこからどんどん外れていく。別に政治的、あるいは反体制的メッセージを広めたいわけではさらさらない。いわんや、権力や大衆がヘヴィーメタルに勝手にはりつけた悪魔崇拝的な主張など、皆無なのだ。

日常の生活でうまくいかないこと、人とのコミュニケーションのすれ違いといったこと、そうしたことの積み重ねが心に刻む痛みといったことを歌に託し、そしてその痛みを表現するために、叫ぶ。ただそれだけの、純粋な芸術表現であるはずの音楽が、必要以上に社会から差別を受け、権力からの弾圧を受けている。メタルコンサートのオーガナイザーは、「今度イベントの企画に関与するときには、その結果に全責任を負うこと」という念書を書かされ、それ以降、身に危険を感じて、コンサートの企画が出来ないと言っているそうだ。

「要は社会は、常に問題の責任をそらし、スケープゴートを必要としているだけ。やれアメリカが悪い、やれイスラエルの陰謀だ、そしてメタルヘッドこそが道徳的退廃をもたらす、って。目の前の問題を自分のでも政府のでもない、第三者の責めに負わせるっていうのが、権力の常套手段でしょ。」とShady。

12月初旬、"HEAVY METAL ISLAM"の著者Mark LevInが、映画クルーを引き連れてエジプトにやってきて、ShadyのYour Prince Hamingなどいくつかのバンドを取材したドキュメンタリー映画を作るそうだ。その撮影の一環として、12月11日、SAWY CULTURE WHEELにて、彼らが総出演するライブが企画されている。

メタルだけじゃなく、テクノやアンビエンス、さらには伝統楽器ウードを使った作曲などへと創作の幅を広げるShadyは、メタル=悪というマジョリティからのレッテル貼り、メタルヘッド=黒Tシャツ+長髪というグルーピー的ステレオタイプのどちらにも違和感をもち、するりするりとその圧力をかわしながら、ジャンルを飛び越えていこうとしている。彼のこの国に対する絶望は深く、「何かが変わるとしても、2世代は先のことだ」とうそぶくが、政治ではなく、弱冠16歳、Shadyのような人間こそが、内部から社会や人を変えていける力を持っているんじゃかいか。この国で自由に音楽をやれる場が完全になくなってしまったら、どこか他の国に行くしかないとも言っていた彼に、勝手な役割を押し付けるのは、ヨソモノの身勝手にすぎないとはわかりつつも、期待しないではいられない何かを彼に感じたのも事実なのだ。
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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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