えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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2007年12月24日にカイロの地をふんで、1年が経過した。エジプトで最初のお正月は、ホテル暮らしで右も左もわから ずじまいだったが、1年たって、少しはこの街とこの国のことがわかり、なんちゃってアラビア語を駆使してなんとか土地の人たちとのコミュニケーションをは かっている。太鼓判には程遠いが、そこそこがんばったと自画自賛。
この年末でザマーレクの家の借家契約が切れるので、11月あたりから更 新すべきかどうか悩んだ末に、引越しを決めた。新居は、ナイル側西岸のモハンデシーン地区。ナイル東岸のオフィスからだと通勤が倍くらい遠くなったが、家 のそばにただで入れる公園があるのが決め手となった。なにせ、ザマーレクの家の向かいにあった会員制の公園は、一日ビジター券を2000円も取るのだから (赴任時は600円)、われら平民には手の届かない世界になってしまっていたのだった。
元旦には、エジプトの古代遺跡を油絵に描き続けて 15年の、木下和さんの展覧会のオープニング。大晦日から仕込みをして、2メートルから4メートルもある大きな作品たちをところ狭しと並べていった。開会 式には日本人、エジプト人あわせて100人以上の人たちが集まってくれ、お正月で人が集まるかという主催者の不安をはらいとばしてくれた。
木下和さんのページ:http://www.hiroshima-e-art.com/file/main/kaiga/kinosita/index.html
か たや、隣国、ガザではイスラエル軍による大規模空爆が続き、とうとう未明からは地上部隊が突入してしまった。ここカイロでもタハリール広場を中心に市民に よる大規模なデモが組織されているが、その怒りはイスラエルに対してはもちろん、それを公然と支持するアメリカ=ブッシュ政権に、そして、国境を閉鎖しつ づけガザ住民を見殺しにするエジプト政府にも向けられている。隣国の危機に対して憤る人々を見て、市民レベルではアラブ人としての連帯感が脈々と生きてい ることを実感する。といっても、それが絶望的無力感と一緒になったものだから、聞かされるだけの自分にもその気分が伝染してしまうのだが。
イラクでブッシュに靴を投げつけた記者がアラブ人のヒーローとなった矢先の大惨事は、ひとびとの民族的高揚感を一気に冷却させてしまった。
基金の仕事を通じて知り合った尊敬する宮内勝典さんのブログ「海亀通信」の元旦の辞はこういう内容だった。
明けまして、おめでとうございます。
世界はまだ血の海で、
いっこうに乾く気配もありませんが、
だからこそ、明けましておめでとうございます、
と、言いつのりたい思いです。
自分も同じ気持ちで、戦地の傍らから、明けましておめでとうございます、と言うことにしよう。
この年末でザマーレクの家の借家契約が切れるので、11月あたりから更 新すべきかどうか悩んだ末に、引越しを決めた。新居は、ナイル側西岸のモハンデシーン地区。ナイル東岸のオフィスからだと通勤が倍くらい遠くなったが、家 のそばにただで入れる公園があるのが決め手となった。なにせ、ザマーレクの家の向かいにあった会員制の公園は、一日ビジター券を2000円も取るのだから (赴任時は600円)、われら平民には手の届かない世界になってしまっていたのだった。
元旦には、エジプトの古代遺跡を油絵に描き続けて 15年の、木下和さんの展覧会のオープニング。大晦日から仕込みをして、2メートルから4メートルもある大きな作品たちをところ狭しと並べていった。開会 式には日本人、エジプト人あわせて100人以上の人たちが集まってくれ、お正月で人が集まるかという主催者の不安をはらいとばしてくれた。
木下和さんのページ:http://www.hiroshima-e-art.com/file/main/kaiga/kinosita/index.html
か たや、隣国、ガザではイスラエル軍による大規模空爆が続き、とうとう未明からは地上部隊が突入してしまった。ここカイロでもタハリール広場を中心に市民に よる大規模なデモが組織されているが、その怒りはイスラエルに対してはもちろん、それを公然と支持するアメリカ=ブッシュ政権に、そして、国境を閉鎖しつ づけガザ住民を見殺しにするエジプト政府にも向けられている。隣国の危機に対して憤る人々を見て、市民レベルではアラブ人としての連帯感が脈々と生きてい ることを実感する。といっても、それが絶望的無力感と一緒になったものだから、聞かされるだけの自分にもその気分が伝染してしまうのだが。
イラクでブッシュに靴を投げつけた記者がアラブ人のヒーローとなった矢先の大惨事は、ひとびとの民族的高揚感を一気に冷却させてしまった。
基金の仕事を通じて知り合った尊敬する宮内勝典さんのブログ「海亀通信」の元旦の辞はこういう内容だった。
明けまして、おめでとうございます。
世界はまだ血の海で、
いっこうに乾く気配もありませんが、
だからこそ、明けましておめでとうございます、
と、言いつのりたい思いです。
自分も同じ気持ちで、戦地の傍らから、明けましておめでとうございます、と言うことにしよう。
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12月21日(日)の夕方、所長と現地スタッフとともに、3件の美術イベントをはしごした。
1件目は、「本」をテーマにした国際ワークショップ&展覧会のオープニングが午後6時30分から。世界中から参加した50名あまりの作家が、自分がイメージする本を制作するという企画のオープニング。主催者はムハンマド・アブンナーガ氏。日本で和紙の紙漉きと和紙アートを勉強してエジプトでも紙にこだわった作品を作るアーティストで、自身、Nafeza(窓)というNGO紙工房を経営している。ここに日系アメリカ人のトーマス松田さん、日本滞在の長い韓国人アーティスト金景秀さんが参加したので、うちの事務所の小さいお財布から滞在費の一部を補助した。トーマスさんは、カイロの街中を歩き、文化遺産や建築物の壁などに和紙をおき、上から圧力をかけてプレスすることによって表面の模様やデザインを写し取るという仕事をしていた。和紙の上に浮かび上がる模様からカイロの町並みや人の息吹が伝わってくる感じがした。金さんの作品は二つあった。一つは遠くから見たらカイロの地図。近づいてみると、青いインクでスタンプされた日付を数万個押すことで線や面が形づくられていることがわかった。その日付は、カイロで制作した日々であり、彼自身のカイロの足跡ということ。もう一つはより本をイメージしたもので、3つの本それぞれにやはり日付がたくさん印字され、表紙には日本語、ハングル、アラビア語でそれぞれ「本」と書かれている。このほかエジプトや他国の作品にも面白い作品がいっぱい。エジプト人作家の石で作った本は、石なのに紙のしなやかな感触が感じられる秀作。思わず触ってみたくなる。
ここのオープニングを駆け足で見て、今度はカイロオペラハウスへ移動。前日の20日から始まっているカイロ・ビエンナーレの表彰式。日本からは彫刻家の山下晴子さんが参加したが、残念ながら受賞はならず。山下さんは1ヶ月前からアスワンに入り、かの地の石を作って作品を制作された。アブシンベルやピラミッドなどに使われた歴史のある石で作品を作るということに重みがある、といったことを山下さんが語っていたのが印象に残っている。グランプリはエジプト人ララ・バラディさんの「希望の塔」。レンガを積み上げて作った未完成の巨大建造物は、カイロ市内にたくさんみられる未完了なまま住人が生活をはじめてしまった家を思わせたり、あるいはレバノンやパレスチナやイラクなどで銃弾を受けた住宅をイメージさせたりもする。この作品も2ヶ月のフェスティバルが終わったら取り壊されてしまう。人工のあらゆるものの儚さを表現したかっただろうか。ララさんは、基金のフェローシップなどで来日経験も何度かあり、日本のカワイイ系サブカルをモチーフにした作品なども作っている。ざっと駆け足で会場を回ってみたら、この地もやはり伝統的なプラスティック・アートよりもメディア・ミックスのインスタレーションが多くて、美術というよりは映画に近いと思わせる作品もいくつかあった。審査員の専門もそっちよりの傾向があり、賞も特に分野で分けていないため、山下さんのようなオーセンティックなアーティストにとって不利な状況であったかもしれない。山下さんは2001年からアスワンの国際彫刻シンポジウムに参加するなど、かれこれ通算では一年ほどアスワンに滞在しているツワモノで、美術を通した二国間の交流にとって少なからぬ貢献をしてくれている。
2件目が終わって、今度はその山下さんをお連れして、オールド・カイロ(コプト教地区)に新しくできたアートギャラリー、DARBのオープニングへ。この一帯が焼き物などの職人の街の一角は、現代のアーティストの発表の場としていい空気をもっていると思う。国際的に活躍するアーティスト、ムアターズ・ナスル氏が作ったスペースで、彼のビデオアート、"The Other Side of A Coin"も置かれていた。1件目と2件目のアーティストもこの会場に流れてきていて、西洋人が多いことを見越してだろうか、屋上のドリンクコーナーには密かにアルコールも用意されていたらしい。酔いが回ったエジプト人アーティストが絡んできて、自分をガマル・アブデル・ナーセルと名乗る。それって、あのナセル大統領の名前とおんなじなんですけど、ほんとうでしょうか・・・・何作ってんのと聞いたら、'stupid great sculptor'とか言って大笑い。やっぱり最近のアートはミックス・メディアで自分にはよくわからないというような話をしながら、2月の自分の彫刻個展に招待したいと言ってくれた。陽気で楽しいおじさんだが、ちょっと酔っ払いすぎだよ、それは。
二階の屋上スペースでは、スーフィーの旋回舞踊タンヌーラのダンサーが、休む間もなく回転し続けていた。
1件目は、「本」をテーマにした国際ワークショップ&展覧会のオープニングが午後6時30分から。世界中から参加した50名あまりの作家が、自分がイメージする本を制作するという企画のオープニング。主催者はムハンマド・アブンナーガ氏。日本で和紙の紙漉きと和紙アートを勉強してエジプトでも紙にこだわった作品を作るアーティストで、自身、Nafeza(窓)というNGO紙工房を経営している。ここに日系アメリカ人のトーマス松田さん、日本滞在の長い韓国人アーティスト金景秀さんが参加したので、うちの事務所の小さいお財布から滞在費の一部を補助した。トーマスさんは、カイロの街中を歩き、文化遺産や建築物の壁などに和紙をおき、上から圧力をかけてプレスすることによって表面の模様やデザインを写し取るという仕事をしていた。和紙の上に浮かび上がる模様からカイロの町並みや人の息吹が伝わってくる感じがした。金さんの作品は二つあった。一つは遠くから見たらカイロの地図。近づいてみると、青いインクでスタンプされた日付を数万個押すことで線や面が形づくられていることがわかった。その日付は、カイロで制作した日々であり、彼自身のカイロの足跡ということ。もう一つはより本をイメージしたもので、3つの本それぞれにやはり日付がたくさん印字され、表紙には日本語、ハングル、アラビア語でそれぞれ「本」と書かれている。このほかエジプトや他国の作品にも面白い作品がいっぱい。エジプト人作家の石で作った本は、石なのに紙のしなやかな感触が感じられる秀作。思わず触ってみたくなる。
ここのオープニングを駆け足で見て、今度はカイロオペラハウスへ移動。前日の20日から始まっているカイロ・ビエンナーレの表彰式。日本からは彫刻家の山下晴子さんが参加したが、残念ながら受賞はならず。山下さんは1ヶ月前からアスワンに入り、かの地の石を作って作品を制作された。アブシンベルやピラミッドなどに使われた歴史のある石で作品を作るということに重みがある、といったことを山下さんが語っていたのが印象に残っている。グランプリはエジプト人ララ・バラディさんの「希望の塔」。レンガを積み上げて作った未完成の巨大建造物は、カイロ市内にたくさんみられる未完了なまま住人が生活をはじめてしまった家を思わせたり、あるいはレバノンやパレスチナやイラクなどで銃弾を受けた住宅をイメージさせたりもする。この作品も2ヶ月のフェスティバルが終わったら取り壊されてしまう。人工のあらゆるものの儚さを表現したかっただろうか。ララさんは、基金のフェローシップなどで来日経験も何度かあり、日本のカワイイ系サブカルをモチーフにした作品なども作っている。ざっと駆け足で会場を回ってみたら、この地もやはり伝統的なプラスティック・アートよりもメディア・ミックスのインスタレーションが多くて、美術というよりは映画に近いと思わせる作品もいくつかあった。審査員の専門もそっちよりの傾向があり、賞も特に分野で分けていないため、山下さんのようなオーセンティックなアーティストにとって不利な状況であったかもしれない。山下さんは2001年からアスワンの国際彫刻シンポジウムに参加するなど、かれこれ通算では一年ほどアスワンに滞在しているツワモノで、美術を通した二国間の交流にとって少なからぬ貢献をしてくれている。
2件目が終わって、今度はその山下さんをお連れして、オールド・カイロ(コプト教地区)に新しくできたアートギャラリー、DARBのオープニングへ。この一帯が焼き物などの職人の街の一角は、現代のアーティストの発表の場としていい空気をもっていると思う。国際的に活躍するアーティスト、ムアターズ・ナスル氏が作ったスペースで、彼のビデオアート、"The Other Side of A Coin"も置かれていた。1件目と2件目のアーティストもこの会場に流れてきていて、西洋人が多いことを見越してだろうか、屋上のドリンクコーナーには密かにアルコールも用意されていたらしい。酔いが回ったエジプト人アーティストが絡んできて、自分をガマル・アブデル・ナーセルと名乗る。それって、あのナセル大統領の名前とおんなじなんですけど、ほんとうでしょうか・・・・何作ってんのと聞いたら、'stupid great sculptor'とか言って大笑い。やっぱり最近のアートはミックス・メディアで自分にはよくわからないというような話をしながら、2月の自分の彫刻個展に招待したいと言ってくれた。陽気で楽しいおじさんだが、ちょっと酔っ払いすぎだよ、それは。
二階の屋上スペースでは、スーフィーの旋回舞踊タンヌーラのダンサーが、休む間もなく回転し続けていた。
エジプトのことを書くブログではありますが、勝手ながら脱線をお許しください(ときどき、このヒトは脱線してしまいますなー)。
年末に入ってから、緒方拳、峰岸徹、筑紫哲也などの著名人が相次いで亡くなって、多くの国民が驚きと悲しみのなかにいる。彼らの演技や発言などに子どもの頃から接してきた自分も、悲しんでいる一人であることは間違いない。が、樋口宗孝が亡くなったということをウェブニュースで知ってから、ずっとそのことが頭を離れない。先にあげた3人を足した衝撃よりもなお強いインパクトを受けている自分に、正直面食らっているのだ。
日本のハードロック・ヘヴィーメタルの王者、LOUDNESSのドラマー。
そんなこと、みんな知ってるんだろうと思っていたら、報道ぶりなど見ても、なにやら伝説のバンドのことをはじめて知って急いで調べたかのような雰囲気で、なるほど今も現役ではあっても、音楽業界のメインストリームからはちょっと遠いところにあるのだなーと知って、これまた悲しい。
彼らが米ビルボードを駆け上がった80年代前半に中高生だった30台後半から40台前半くらいの世代にとっては、LOUDNESSもヘヴィーメタルもギラギラと輝いていた。僕らにとってLOUDNESSは、音楽界のTOYOTAやHONDAのような存在で、ロック揺籃の地アメリカに乗り込んで、英語で歌い、そして熱狂的に受け入れられたほとんど唯一の存在なのだ。その後、北海道出身のFLATBACKERというバンドがKISSのジーン・シモンズに見出され、EZOという名前でアメリカで活躍したけれど、イチローよりも野茂が偉いように、先陣を切って前人未到のことをやってのけたLOUDNESSの偉業は、日本人として生まれ、アメリカのロックにとりつかれ、でもアメリカ人には当然ながらなれない一種のコンプレックスをもつ僕らにとって、爽快な体験であったことは確かだ。
1983年、ハードロック、ヘヴィーメタルと出会い、一夜にしてロック少年に変身、大学までバンドにのめりこんでいた自分も、卒業と就職を経て、気がつくとカラオケですら歌うことのないおじさんになってしまっている。ヘボとはいえ毎日のようにいじっていたギターも、錆びた弦がくっついたまま、埃を被っている。LOUDNESSも、何度かのメンバーチェンジや活動休止を経つつ現在も活動しているのは知っているけれど、新譜を買って聞くこともなくなっていた。
そんななか、ひぐっつぁんの死をきっかけに、自分が青春を送ったロックが熱かった時代のことが思い出され、久しぶりに高揚した気分になっている。伏線として、エジプトのヘヴィーメタルのことを調べていたことも、少しながら影響しているかもしれない。
GoogleやYoutubeでLOUDNESSのこと、EZOのこと、同じく世界で認められた実力派グループVOW WOWのことなど調べたりしていると、LOUDNESSのヴォーカリスト、二井原実(にいちゃん)のブログを発見。にいちゃんの高校時代から現在までの音楽遍歴がたくさんのエピソードとともに紹介されていて、最高に面白い。恥ずかしながら、にいちゃんが初代アースシェーカーのボーカルだったことを、このブログではじめて知ったのだが、70年代後半から80年代前半頃、日本のハードロックの黎明期を関西方面の彼らがいりまじりながら盛り上げていったことがイキイキと描かれている。この時代にハードロック、ヘヴィーメタルにちょっとでも触れた人なら、絶対に楽しめる内容。たくさん寄せられたコメントにも、僕とおんなじで久しぶりにロックにときめいた人たちの高揚した気分が満ちている。ぜひ、読んでみてください!
ラウドネス二井原実ブログ「R&R GYPSY」:http://loudness.exblog.jp/
年末に入ってから、緒方拳、峰岸徹、筑紫哲也などの著名人が相次いで亡くなって、多くの国民が驚きと悲しみのなかにいる。彼らの演技や発言などに子どもの頃から接してきた自分も、悲しんでいる一人であることは間違いない。が、樋口宗孝が亡くなったということをウェブニュースで知ってから、ずっとそのことが頭を離れない。先にあげた3人を足した衝撃よりもなお強いインパクトを受けている自分に、正直面食らっているのだ。
日本のハードロック・ヘヴィーメタルの王者、LOUDNESSのドラマー。
そんなこと、みんな知ってるんだろうと思っていたら、報道ぶりなど見ても、なにやら伝説のバンドのことをはじめて知って急いで調べたかのような雰囲気で、なるほど今も現役ではあっても、音楽業界のメインストリームからはちょっと遠いところにあるのだなーと知って、これまた悲しい。
彼らが米ビルボードを駆け上がった80年代前半に中高生だった30台後半から40台前半くらいの世代にとっては、LOUDNESSもヘヴィーメタルもギラギラと輝いていた。僕らにとってLOUDNESSは、音楽界のTOYOTAやHONDAのような存在で、ロック揺籃の地アメリカに乗り込んで、英語で歌い、そして熱狂的に受け入れられたほとんど唯一の存在なのだ。その後、北海道出身のFLATBACKERというバンドがKISSのジーン・シモンズに見出され、EZOという名前でアメリカで活躍したけれど、イチローよりも野茂が偉いように、先陣を切って前人未到のことをやってのけたLOUDNESSの偉業は、日本人として生まれ、アメリカのロックにとりつかれ、でもアメリカ人には当然ながらなれない一種のコンプレックスをもつ僕らにとって、爽快な体験であったことは確かだ。
1983年、ハードロック、ヘヴィーメタルと出会い、一夜にしてロック少年に変身、大学までバンドにのめりこんでいた自分も、卒業と就職を経て、気がつくとカラオケですら歌うことのないおじさんになってしまっている。ヘボとはいえ毎日のようにいじっていたギターも、錆びた弦がくっついたまま、埃を被っている。LOUDNESSも、何度かのメンバーチェンジや活動休止を経つつ現在も活動しているのは知っているけれど、新譜を買って聞くこともなくなっていた。
そんななか、ひぐっつぁんの死をきっかけに、自分が青春を送ったロックが熱かった時代のことが思い出され、久しぶりに高揚した気分になっている。伏線として、エジプトのヘヴィーメタルのことを調べていたことも、少しながら影響しているかもしれない。
GoogleやYoutubeでLOUDNESSのこと、EZOのこと、同じく世界で認められた実力派グループVOW WOWのことなど調べたりしていると、LOUDNESSのヴォーカリスト、二井原実(にいちゃん)のブログを発見。にいちゃんの高校時代から現在までの音楽遍歴がたくさんのエピソードとともに紹介されていて、最高に面白い。恥ずかしながら、にいちゃんが初代アースシェーカーのボーカルだったことを、このブログではじめて知ったのだが、70年代後半から80年代前半頃、日本のハードロックの黎明期を関西方面の彼らがいりまじりながら盛り上げていったことがイキイキと描かれている。この時代にハードロック、ヘヴィーメタルにちょっとでも触れた人なら、絶対に楽しめる内容。たくさん寄せられたコメントにも、僕とおんなじで久しぶりにロックにときめいた人たちの高揚した気分が満ちている。ぜひ、読んでみてください!
ラウドネス二井原実ブログ「R&R GYPSY」:http://loudness.exblog.jp/
12月7日から11日までの犠牲祭休暇に週末をくっつけて、5泊6日の旅に出た。
エジプトに来てはや1年。エジプトといえば誰もが行きたがる南の一大観光地、ルクソール、アスワン、アブシンベルにはじめて出かけることができた。
ルクソールまでは飛行機で1時間のひとっとび。そこからナイル川河畔で待つクルーズ船に乗り込み、4泊5日の間、船に乗って食べて寝ていれば身は勝手に南へと流れていくお気楽な旅は、古くよりエジプト観光の定番だったらしいが、通の旅人からは邪道とされてきたともいう。
初日はルクソールに留まったまま、手配してある車とガイドさんが東岸のカルナック神殿、ルクソール神殿を丁寧に案内してくれる。この日は寝て朝になってもまだルクソールのままで、早朝から今度は西岸へと連れ出され、王家の谷とハトシェプスト葬祭神殿を見学。それなりに感動するも、もともとファラオニック・エジプトにそれほど愛着のない自分にとっては、ガイドブックでも十分に見たものの再確認といった感もあり、そこそこの感慨が沸いてきた程度というのが正直なところ。
二日目の夜から船は上流へと動き出し、エスナの水門を抜け、朝になるとエドフという町に着いていた。午前中に馬車でつれていってもらったホルス神殿、そしてさらに南下したコムオンボにあるハトホル神殿は、ともにグレコローマン時代の建築なのだが、様式はまったくファラオニックなままなのが意外だった。それも、ローマ時代にキリスト教化が進んで以降は、土着のヤオロズ神をあがめることを禁止したらしく、ことごとく神々のレリーフが削られてしまっており、変わって十字架などキリスト教のイメージが刻まれていて、歴史の移行期の爪あとが見られるのが面白い。
三日目の夜を明かし、四日目に起きてみたら船はアスワンに着いていた。
この町はエジプトというよりはアフリカ的な匂いがし、川から離れると砂漠が広がっているにも関わらず、川の周囲はうっそうと草木が茂り、ナイルに浮かぶ島々は湿地帯の様相を呈し、浅瀬で魚を狙う色とりどりの野鳥を鑑賞することができる。朝一番でアスワンハイダムへ向かったのだが、このダム建設で多くの村が沈み、100万人強のヌビア人が移住させられたと聞き、ダムが出来る前はもっと美しく豊かな自然がここにあったであろうことを想像してみた。洪水の管理、耕作地の確保、電力の自給など、近代化の果実を得る見返りに、失ったものもまた大きかったということのようだ。4日間ずっとつきあってくれたガイドさんはアスワン出身のヌビア人であり、たんたんと事実を述べつつも、彼の表情や表現には複雑な陰影が見てとれた。クルーズ船のサンデッキで彼が語ってくれた言葉が印象に残った。
「ナセル政権、北のエジプト人たちは、潜在的なヌビアの力を恐れていたから、それを削いでしまうこともダム建設の隠れた目的にあったはずだ。」
ラムセス二世がこの地にアブシンベル神殿を建てたとき、それを見ていた土地のヌビア人たちは、これほどの強大な文明を自分のものにしてみたいと願うようになり、それが第25王朝においてヌビア人による国家統一を導いたとも、ものの本には書いてある。近代以降も、この地はヌビア人による事実上の自治が行われていたらしく、19世紀以降、ヨーロッパの探検家や考古学者が恐る恐る湿地を分け入り、土地の人たちとはじめて接触していくなかで、徐々にヌビアの地が植民化されたエジプトに統合されていったということらしい。
4日目の夕方は、ボートに乗ってヌビアの村に出かけた。僕ら一般人に観光プログラムとして見せる村だから、相当世俗化しているだろうとは思っていたが、四六時中観光客を入れ、茶を出し、ワニと遊ばせ、ヘンナを塗るサービスをするヌビアの家族を見ていると、純粋な伝統文化などというものはありえないとは知りつつも、やはり近代化が導いた喪失を思わなかったといえば、ウソになるだろう。
たまたま、旅に出る前日に、仕事関係で入手した1本のドキュメンタリー映画を見ていた。それが、NUBAというタイトルで、ヌビア人の歴史と現在をインタビューを中心に追ったものだった。全編アラビア語、字幕なしなので、ストーリーをちゃんと追うことは出来なかったが、最後に一人一人に自分のアイデンティティをインタビュアーが聞くシーンがあって、「エジプト人でありヌビア人でもある。」という回答が一番多かったものの、どちらかというと「ヌビア人」のほうを強調する傾向があった。ヌビア村観光を追え、タクシーでクルーズ船に戻るとき、タクシーの運転手が自分たちの出身を聞いてくるので、日本人だと答えつつ、反対に聞き返してみた。
"I am Nubian."
というのが、彼の返事だった。
なにぶんお気楽な豪華客船の旅なもんで、焦点が定まった感想もないわけだが、ヌビアという存在に対する関心がちょっとだけ膨らんだようには思っている。旅の締めくくりはアブシンベル。満月の夜、音と光のショーを見に出かけたが、ショーそのものよりも、開始前に暗転したときに、月明かりを反射してその輪郭をくっきりと浮かび上がらせた大神殿、小神殿の姿が、いちばん美しく見えた。
エジプトに来てはや1年。エジプトといえば誰もが行きたがる南の一大観光地、ルクソール、アスワン、アブシンベルにはじめて出かけることができた。
ルクソールまでは飛行機で1時間のひとっとび。そこからナイル川河畔で待つクルーズ船に乗り込み、4泊5日の間、船に乗って食べて寝ていれば身は勝手に南へと流れていくお気楽な旅は、古くよりエジプト観光の定番だったらしいが、通の旅人からは邪道とされてきたともいう。
初日はルクソールに留まったまま、手配してある車とガイドさんが東岸のカルナック神殿、ルクソール神殿を丁寧に案内してくれる。この日は寝て朝になってもまだルクソールのままで、早朝から今度は西岸へと連れ出され、王家の谷とハトシェプスト葬祭神殿を見学。それなりに感動するも、もともとファラオニック・エジプトにそれほど愛着のない自分にとっては、ガイドブックでも十分に見たものの再確認といった感もあり、そこそこの感慨が沸いてきた程度というのが正直なところ。
二日目の夜から船は上流へと動き出し、エスナの水門を抜け、朝になるとエドフという町に着いていた。午前中に馬車でつれていってもらったホルス神殿、そしてさらに南下したコムオンボにあるハトホル神殿は、ともにグレコローマン時代の建築なのだが、様式はまったくファラオニックなままなのが意外だった。それも、ローマ時代にキリスト教化が進んで以降は、土着のヤオロズ神をあがめることを禁止したらしく、ことごとく神々のレリーフが削られてしまっており、変わって十字架などキリスト教のイメージが刻まれていて、歴史の移行期の爪あとが見られるのが面白い。
三日目の夜を明かし、四日目に起きてみたら船はアスワンに着いていた。
この町はエジプトというよりはアフリカ的な匂いがし、川から離れると砂漠が広がっているにも関わらず、川の周囲はうっそうと草木が茂り、ナイルに浮かぶ島々は湿地帯の様相を呈し、浅瀬で魚を狙う色とりどりの野鳥を鑑賞することができる。朝一番でアスワンハイダムへ向かったのだが、このダム建設で多くの村が沈み、100万人強のヌビア人が移住させられたと聞き、ダムが出来る前はもっと美しく豊かな自然がここにあったであろうことを想像してみた。洪水の管理、耕作地の確保、電力の自給など、近代化の果実を得る見返りに、失ったものもまた大きかったということのようだ。4日間ずっとつきあってくれたガイドさんはアスワン出身のヌビア人であり、たんたんと事実を述べつつも、彼の表情や表現には複雑な陰影が見てとれた。クルーズ船のサンデッキで彼が語ってくれた言葉が印象に残った。
「ナセル政権、北のエジプト人たちは、潜在的なヌビアの力を恐れていたから、それを削いでしまうこともダム建設の隠れた目的にあったはずだ。」
ラムセス二世がこの地にアブシンベル神殿を建てたとき、それを見ていた土地のヌビア人たちは、これほどの強大な文明を自分のものにしてみたいと願うようになり、それが第25王朝においてヌビア人による国家統一を導いたとも、ものの本には書いてある。近代以降も、この地はヌビア人による事実上の自治が行われていたらしく、19世紀以降、ヨーロッパの探検家や考古学者が恐る恐る湿地を分け入り、土地の人たちとはじめて接触していくなかで、徐々にヌビアの地が植民化されたエジプトに統合されていったということらしい。
4日目の夕方は、ボートに乗ってヌビアの村に出かけた。僕ら一般人に観光プログラムとして見せる村だから、相当世俗化しているだろうとは思っていたが、四六時中観光客を入れ、茶を出し、ワニと遊ばせ、ヘンナを塗るサービスをするヌビアの家族を見ていると、純粋な伝統文化などというものはありえないとは知りつつも、やはり近代化が導いた喪失を思わなかったといえば、ウソになるだろう。
たまたま、旅に出る前日に、仕事関係で入手した1本のドキュメンタリー映画を見ていた。それが、NUBAというタイトルで、ヌビア人の歴史と現在をインタビューを中心に追ったものだった。全編アラビア語、字幕なしなので、ストーリーをちゃんと追うことは出来なかったが、最後に一人一人に自分のアイデンティティをインタビュアーが聞くシーンがあって、「エジプト人でありヌビア人でもある。」という回答が一番多かったものの、どちらかというと「ヌビア人」のほうを強調する傾向があった。ヌビア村観光を追え、タクシーでクルーズ船に戻るとき、タクシーの運転手が自分たちの出身を聞いてくるので、日本人だと答えつつ、反対に聞き返してみた。
"I am Nubian."
というのが、彼の返事だった。
なにぶんお気楽な豪華客船の旅なもんで、焦点が定まった感想もないわけだが、ヌビアという存在に対する関心がちょっとだけ膨らんだようには思っている。旅の締めくくりはアブシンベル。満月の夜、音と光のショーを見に出かけたが、ショーそのものよりも、開始前に暗転したときに、月明かりを反射してその輪郭をくっきりと浮かび上がらせた大神殿、小神殿の姿が、いちばん美しく見えた。
カイロ国際映画祭終了。
終了日前日の11/27に、パレスチナ映画『ライラの誕生日』を見る。1時間ちょっとの短い映画だが、小学生の娘をもつ初老の元弁護士現タクシー運転手の一日を小気味よく追いかける。主演はムハンマド・バクリ。アラブ系イスラエル人で、多くのイスラエル映画で悪役を中心に味のある演技をしてきた人であると四方田犬彦さんが書いていた。その四方田さんが数年前、彼を日本に呼んで、エミール・ハビービ著『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』の一人芝居を見せてくれたことがあった。スクリーンを通してのことだけれど、久しぶりに旧友に会ったような喜びを感じた。映画でのバクリ氏の一日は、タクシーに携帯を忘れてそれを届けろという男に振り回され、車を修理に出している間に近くでテロがあり、被害にあった男を乗せて自分のタクシーは病院に運ばれてしまっていたり、病院に着いてみたらその犠牲者は亡くなっていて、帰りは悲嘆にくれる奥さんを乗せていくことになったり、駐車してライラのケーキを買っている間に車のまわりで結婚パレードがあって、タクシーが赤いリボンで飾られていたり、それこそ悲楽観ではないが悲喜劇のオンパレード。でも、家に帰ってみると、ライラの誕生日をお祝いするのにぴったりのグッズがバクリ氏の手元には残っていました、というオチ。ライラに「どんな一日だった?」と聞かれて、はにかみながら「いつもどおりさ。」と答えるバクリ氏がカッコよかった。
ダウンタウンの映画館、メトロからしばし家の方向に散歩していると、シュルークという仕事上のつきあいのある出版社の書店がある。立ち寄って、アラビア語や英語の本をちらちらと眺める。辞書のコーナーで英語→エジプト方言の辞書発見。英語の小説のコーナーで、パキスタンの作家が書いた"A Reluctant Fundamentalist"という小説とあわせて購入。2階の一角に最近国際交流基金がアラビア語訳をシュルーク社に委託して作ったNHK編の『明治』が平済みになっているのを発見。思わず写真を撮る。
11月30日。出勤して新聞を見ると、閉会したカイロ国際映画祭の結果報告が載っていて、木村文洋監督の『へばの』がデジタル部門銀賞受賞!『ライラの誕生日』は脚本賞。多忙を口実にあまり多くの映画を見れなかったけれど、素敵な出会いがあって良かった。木村監督に祝電ならく祝メールを送る。数日後、カイロから戻った同氏から嬉しい、嬉しい返事をもらった。
この日は、午前11時にアル・ホレイヤ・スクールという私立学校のChildren's Dayのパーティに呼ばれていたので、15分だけのつもりで出かける。校長室に呼ばれ、5分くらい話したら、子どもたちの声がする中庭のほうへ案内された。外に出てみると、そこは二階のバルコニーになっていて、見下ろすと100人強の子どもたちがこちらを向いて手をふっている。校長、教育省のオエラさんとならんで、メイン・ゲストならぬパンダにされていたわけだ。そしてボクの隣には、アラブポップを全開にかけ、頭からヘッドマイクを下げるDJのおにいちゃん。このおにいちゃんはDJをやったと思ったら、次には手品師になり、そのあと腹話術をやって、最後にマペットショー。なんでもこなすスーパーマンは、こうして毎日のように学校や幼稚園を回っているのだろう。実際、うちの娘の通う保育園にも、園児の誕生パーティとかいって、よくマジシャンが来るのだ。2月あたり、ここで中学生向けに日本についてのレクチャーをする約束をさせられてしまったのが、少し気が重いが、子どもたちとお付き合いするのは精神衛生上いいことは間違いない。
11月末、家の契約更改の通告期限。夫婦で悩んだ末、年末に引越し断行を決定。この1年、苦痛でしかなかった偏屈大家とオサラバするのだ。その翌日、12月1日夕刻には引っ越す先の家を訪問し、大家と契約書を交わす。犠牲祭が終わったら、ワタワタと準備することになるだろう。新居の近くには、タダで入れるきれいな花の咲き乱れる公園がある。ここで娘たちを思う存分遊ばせるのだ。
契約は、契約期間とか電話の問題とかで結構モメて、1時間ほどかかる。きびすを返してサウィー文化センターで主催している折り紙教室へ。この日が3回コースの最終日で、前回やった3回コース同様、アレキサンドリア在住のスーパー折り紙青年、イケメンのオサマくん、通称オズオズが講師。前2回はうちの事務所の若干21歳のネヴィンさんがメインで教え、僕らが巡回して指導補助する形だが、この日はオサマの独壇場。視聴率の高い民放Dreem TVの取材も入っていて、オズオズを中心にこれから折り紙がちょっとしたブームになっていくかもしれない。
12月2日は、秋のお茶会。日本人の奥様が中心に週一で練習している茶道同好会の1年に二回(春と秋)の晴れ舞台。カイロ大や基金日本語講座の学生、いけばなの会員、折り紙講座受講者などが来て、15分ばかり、タタミに脂汗をかきながら座り、砂糖の入っていない慣れない薄茶を、おいしそうな作り顔して飲んでくれた。貴重な異文化体験だ。何回かトライしていくうちに、本当に好きになる人が出てくる。きっとそういうものだ。
その後は、12月7日に実施の日本語能力試験の準備、12月1日締切りの公募助成プログラムの申請書とりまとめやらで、珍しく帰宅が10時、11時になる。8日からは犠牲祭となり、世の中は5日から13日まで1週間以上動かなくなる。その前にいろんな仕事を片付ける必要があって、てんやわんや。自分自身も8日から13日まで、念願のルクソール→アスワン→アブシンベルの旅に出かけるから、そのためにも仕事をせっせと片付ける。
12月5日から、"HEAVY METAL ISLAM"の著者、マーク・レビン氏が映画クルーを引き連れてカイロにやってくるらしい。アイマン・ヌールの息子Shadyらのバンドや、女の子だけのメタルバンドなど4つのグループの生活と音楽を取材して、ドキュメンタリーを作るらしい。11日にはサウィーで彼らのライブがあるという。こちらも見たいのはヤマヤマだが、今回は友人の記者Fさんの取材後日談を楽しみにして、古代エジプトにトリップすることにしよう。
11月は、ロンドンで買ってきた、Arvind Dogra著"White Tiger"を読み耽った。知恵をつけて下克上で主人をやっつけて起業する元使用人の物語。今年のブッカー賞受賞のインド人作家のデビュー作。めざましい発展を続けるインドの裏側を描く、ちょっと背筋が寒くなるお話。ボクも下手をすると運転手にやられるかもしれない。。。。
今週は、"A Reluctant Fundamentalist"を読み耽っている。感想はまた今度書くことにしよう。
ということで、これから犠牲祭の休みで長期旅行に出かけます。ブログもしばらくお休みです。
ではでは。
終了日前日の11/27に、パレスチナ映画『ライラの誕生日』を見る。1時間ちょっとの短い映画だが、小学生の娘をもつ初老の元弁護士現タクシー運転手の一日を小気味よく追いかける。主演はムハンマド・バクリ。アラブ系イスラエル人で、多くのイスラエル映画で悪役を中心に味のある演技をしてきた人であると四方田犬彦さんが書いていた。その四方田さんが数年前、彼を日本に呼んで、エミール・ハビービ著『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』の一人芝居を見せてくれたことがあった。スクリーンを通してのことだけれど、久しぶりに旧友に会ったような喜びを感じた。映画でのバクリ氏の一日は、タクシーに携帯を忘れてそれを届けろという男に振り回され、車を修理に出している間に近くでテロがあり、被害にあった男を乗せて自分のタクシーは病院に運ばれてしまっていたり、病院に着いてみたらその犠牲者は亡くなっていて、帰りは悲嘆にくれる奥さんを乗せていくことになったり、駐車してライラのケーキを買っている間に車のまわりで結婚パレードがあって、タクシーが赤いリボンで飾られていたり、それこそ悲楽観ではないが悲喜劇のオンパレード。でも、家に帰ってみると、ライラの誕生日をお祝いするのにぴったりのグッズがバクリ氏の手元には残っていました、というオチ。ライラに「どんな一日だった?」と聞かれて、はにかみながら「いつもどおりさ。」と答えるバクリ氏がカッコよかった。
ダウンタウンの映画館、メトロからしばし家の方向に散歩していると、シュルークという仕事上のつきあいのある出版社の書店がある。立ち寄って、アラビア語や英語の本をちらちらと眺める。辞書のコーナーで英語→エジプト方言の辞書発見。英語の小説のコーナーで、パキスタンの作家が書いた"A Reluctant Fundamentalist"という小説とあわせて購入。2階の一角に最近国際交流基金がアラビア語訳をシュルーク社に委託して作ったNHK編の『明治』が平済みになっているのを発見。思わず写真を撮る。
11月30日。出勤して新聞を見ると、閉会したカイロ国際映画祭の結果報告が載っていて、木村文洋監督の『へばの』がデジタル部門銀賞受賞!『ライラの誕生日』は脚本賞。多忙を口実にあまり多くの映画を見れなかったけれど、素敵な出会いがあって良かった。木村監督に祝電ならく祝メールを送る。数日後、カイロから戻った同氏から嬉しい、嬉しい返事をもらった。
この日は、午前11時にアル・ホレイヤ・スクールという私立学校のChildren's Dayのパーティに呼ばれていたので、15分だけのつもりで出かける。校長室に呼ばれ、5分くらい話したら、子どもたちの声がする中庭のほうへ案内された。外に出てみると、そこは二階のバルコニーになっていて、見下ろすと100人強の子どもたちがこちらを向いて手をふっている。校長、教育省のオエラさんとならんで、メイン・ゲストならぬパンダにされていたわけだ。そしてボクの隣には、アラブポップを全開にかけ、頭からヘッドマイクを下げるDJのおにいちゃん。このおにいちゃんはDJをやったと思ったら、次には手品師になり、そのあと腹話術をやって、最後にマペットショー。なんでもこなすスーパーマンは、こうして毎日のように学校や幼稚園を回っているのだろう。実際、うちの娘の通う保育園にも、園児の誕生パーティとかいって、よくマジシャンが来るのだ。2月あたり、ここで中学生向けに日本についてのレクチャーをする約束をさせられてしまったのが、少し気が重いが、子どもたちとお付き合いするのは精神衛生上いいことは間違いない。
11月末、家の契約更改の通告期限。夫婦で悩んだ末、年末に引越し断行を決定。この1年、苦痛でしかなかった偏屈大家とオサラバするのだ。その翌日、12月1日夕刻には引っ越す先の家を訪問し、大家と契約書を交わす。犠牲祭が終わったら、ワタワタと準備することになるだろう。新居の近くには、タダで入れるきれいな花の咲き乱れる公園がある。ここで娘たちを思う存分遊ばせるのだ。
契約は、契約期間とか電話の問題とかで結構モメて、1時間ほどかかる。きびすを返してサウィー文化センターで主催している折り紙教室へ。この日が3回コースの最終日で、前回やった3回コース同様、アレキサンドリア在住のスーパー折り紙青年、イケメンのオサマくん、通称オズオズが講師。前2回はうちの事務所の若干21歳のネヴィンさんがメインで教え、僕らが巡回して指導補助する形だが、この日はオサマの独壇場。視聴率の高い民放Dreem TVの取材も入っていて、オズオズを中心にこれから折り紙がちょっとしたブームになっていくかもしれない。
12月2日は、秋のお茶会。日本人の奥様が中心に週一で練習している茶道同好会の1年に二回(春と秋)の晴れ舞台。カイロ大や基金日本語講座の学生、いけばなの会員、折り紙講座受講者などが来て、15分ばかり、タタミに脂汗をかきながら座り、砂糖の入っていない慣れない薄茶を、おいしそうな作り顔して飲んでくれた。貴重な異文化体験だ。何回かトライしていくうちに、本当に好きになる人が出てくる。きっとそういうものだ。
その後は、12月7日に実施の日本語能力試験の準備、12月1日締切りの公募助成プログラムの申請書とりまとめやらで、珍しく帰宅が10時、11時になる。8日からは犠牲祭となり、世の中は5日から13日まで1週間以上動かなくなる。その前にいろんな仕事を片付ける必要があって、てんやわんや。自分自身も8日から13日まで、念願のルクソール→アスワン→アブシンベルの旅に出かけるから、そのためにも仕事をせっせと片付ける。
12月5日から、"HEAVY METAL ISLAM"の著者、マーク・レビン氏が映画クルーを引き連れてカイロにやってくるらしい。アイマン・ヌールの息子Shadyらのバンドや、女の子だけのメタルバンドなど4つのグループの生活と音楽を取材して、ドキュメンタリーを作るらしい。11日にはサウィーで彼らのライブがあるという。こちらも見たいのはヤマヤマだが、今回は友人の記者Fさんの取材後日談を楽しみにして、古代エジプトにトリップすることにしよう。
11月は、ロンドンで買ってきた、Arvind Dogra著"White Tiger"を読み耽った。知恵をつけて下克上で主人をやっつけて起業する元使用人の物語。今年のブッカー賞受賞のインド人作家のデビュー作。めざましい発展を続けるインドの裏側を描く、ちょっと背筋が寒くなるお話。ボクも下手をすると運転手にやられるかもしれない。。。。
今週は、"A Reluctant Fundamentalist"を読み耽っている。感想はまた今度書くことにしよう。
ということで、これから犠牲祭の休みで長期旅行に出かけます。ブログもしばらくお休みです。
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