忍者ブログ
えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
[22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

話題の映画を、ようやく、ようやく、重い腰を上げて、観た。それも、自宅にてDVDで。映画館に行こう、行こう、という思いは日々脳裏をかすめるのだが、どうもフットワークが重くていけない。気がついたら上映館は一つもなくなってしまっていた。愕然としていたのだが、それから数ヶ月でDVDが店頭に並び、とりあえず溜飲を下げた。さっそく購入するも、今度は手元におけたことで安心してしまい、さらに数週間。子どもたちと一緒に布団に入ったのが6時過ぎのことで、10時半に目が覚め、本を読む気にならなかったので、ここぞとばかりにDVDをかけた。

2008年話題のエジプト映画、"Hasan and Marcos"は、その名が示すとおり、ムスリムとクリスチャンの男性が主人公。マルコス役に『アラビアのロレンス』のオマール・シャリフ、ハサン役にエジプトの喜劇王、アーデル・イマームという、往年の二大スターを起用する贅沢ぶり。

エジプトのキリスト教は、正教系の流れを汲みコプト教と呼ばれているが、ブーリス(アーデル・イマーム)は、宗教間の融和を説くコプトの地方指導者で、その融和姿勢が対決派の気にいらず、命を狙われている。同様に穏健な融和推進者のイスラームのシェイフ、ハサン(オマール・シャリフ)も、殉教した過激派の兄弟の跡を継げと脅迫を受けていた。二人はそれぞれ、警察に庇護を求めるが、担当した警部の迷案で、ブーリスは、ムスリムのハサンとして、ハサンはコプトのマルコスとして、ほとぼりが冷めるまで、地方で隠遁することになった。紆余曲折を経て、同じフラットの隣同士になった二軒の家族は、周囲に対しても、そして目の前の隣人に対しても自らの本当のアイデンティティを隠し続けなければならない。しかし、隠遁生活の長期化に伴い、二人とも金がなくなり、なにか仕事をする必要に迫られる。そこで、二人は共同経営でパン屋を営むのだが、そうした共同作業を通じて、この二つの家族はだんだんと親愛の気持ちを深めていくのだった。特に、ブーリスの息子とハサンの娘は初対面から惹かれあい、恋に落ちていくのだが、宗教を偽っているのは自分のほうであって、相手もそうであるとはお互い創造だにしていないところに、すでに悲劇は胚胎しているのだった。つまり、いまは異教徒同士の許されざる恋ということになっているが、いずれ真実を語れるようになれば、同じ宗教を信じる者同士、堂々と付き合える。そう、二人とも信じていたのだった。二人はやがて、将来を誓いあうまでに接近していくのだが、男が真実を告白した瞬間に、物語は悲劇へと劇的に変化する。ここからの展開は、ゆるい宗教観念で生きている日本人一般にはなかなか感情移入しにくいところだが、互いが互いをだましあっていたということが、一時はこの信頼しあった二つの家族の仲を引き裂く。どちらとも、一秒たりとも隣人ではいられないというヒステリー状態に陥ってしまうのだった(このヒステリー状態をリードしているのはいずれも妻であり、夫はそれに半分は同調しつつも、どこか割り切れない感情を抱えているという描かれ方をしている。この部分の描き方は説得力が弱いと感じた)。最後、ある出来事が分裂した二つの家族をもう一度結びつけることになるが、随所に笑いを忍ばせていながらも、全体としては重く暗い作品となっている。

視聴後の感想としては、フィクションということをさしひいて考えても、この国の二つの宗教グループ、イスラームとコプトは、一見、仲良く共存しているように見えるが、その実、平和は危うくもろい基盤のうえで実現されているということを知り、まずは自分の社会認識を改める必要性を感じた。確かに、自分がエジプトに住み始めた1年前から見ているだけでも、地方都市を中心に、小さな衝突が発生し、殺生沙汰にまでなっているケースもある。それぞれの宗教集団において、マジョリティは穏健な共存を支持するか、あるいは特段共存ということを政治化して考えてはいないだろうと思うが、どちらにも己こそが真実を体現していて他者は謝っていると信じる人たちがいて、こうした人たちが対立の構造を捏造し、強化していくという事態が、この国でも起こっている。カイロからアレキサンドリアへ向かう高速道路沿いのコプト修道院の街、ワディ・ナトルーンへのツアーに参加したことがあるが、ツアーの数字前までキャンセルの可能性があると聞き、その理由を尋ねると、数ヶ月前にこの街で、コプトの男とイスラームの女が駆け落ちし、この女がコプトのコミュニティにかくまわれたことを受け、女の住むコミュニティが報復として修道院を襲撃したということだった。訪問した修道院にて、案内してくれた修道士が、修道院をとりまく城壁などのセキュリティ・システムに触れ、「自分たちは、10世紀以上の間、バーバリアンから自衛をしなければならなかった。」と語ったとき、彼は過去のこととしてだけ語っているのではないことは、明らかだった。

さて、そのような社会背景のなかで、この映画が問いかけたかったメッセージとは?相手が自分と同じであるとの二つの認識が、ある日同時に崩れ去る。そのとき、二者それぞれが考える。我々はどうして信頼と友情を育むことができたのか、と。それは、単純に自分と相手が同じだと信じていたから、というだけなのか。むしろ、宗教的アイデンティティはお互いに隠蔽いたのだから、わかりあえていた部分というのは宗教的要素を除いた人間性ではなかったのか。「宗教が対立する」というステレオタイプ化されたテーゼに対抗して、では、その宗教の部分にマスクをしてしまったらどうだろう、というアイデアは、単純だが、映画のなかで上手に作用していたように思う。

日本で買えるかどうかはわかりませんが、エジプト映画のDVDはたいがい英語とフランス語の字幕がついているので、結構、ふつうに楽しめます。小難しいことを考えなくとも、往年のスターが共演する華のある娯楽映画として十分楽しめるはず。ぜひ、手にとって観てみてください。



PR
今日、2月15日から国際交流基金のプログラムで2週間日本に行ってもらう若い映画作家二人が、事務所に来てくれた。芸術アカデミー高等映画専門学校なるところで、ひとりは学生として卒業制作に取り組んでいる最中、もうひとりは卒業後講師として後進の指導にあたっている。

事前に二人が撮ったドキュメンタリーを見せてもらっていた。

講師のSoad Alyさんの作品は、"NUBA"というタイトルで、エジプト南部に多く住む民族の歴史と現在を追った50分のドキュメンタリー。ナセル時代のアスワンハイダム建設によって多くのヌビア族の村が水没し、再定住のプロセスのなかで、彼らの先祖伝来の文化のなにがしかが失われた。そんな彼らの現代におけるヌビアとしてのアイデンティティを追った作品である。この映画はアルジャジーラで放映されたもので、その実績からも、彼女はもうすでにプロとして活躍している作家であると言える。いまは、初めての劇映画を準備中だということで、完成したら市内の映画館で普通にお金を払って見ることができるはずだ。

学生のAbu Bakrさんの作品のタイトルは、"The Colony"。カイロの北にあるハンセン氏病患者と家族が隔離された村を取材したドキュメンタリーだ。今日、Abu Bakrさんとはじめて会って、少しばかりこの映画について話ができたのだが、映画でも紹介されているように、キリスト教ミッション系のNGOや政府の支援が入り、若い世代は罹患しても治療を受けて回復しているケースが多く、独立だ、戦争だと外交的冒険主義にあけくれたナセル時代を生きた彼らの親の世代には全く省みられなかったこと(その跡は、病状が進行した彼らの肢体を見れば一目瞭然である)であり、その意味では状況は改善されているのだという。むしろ現在の問題は、この村は法的には全く隔離されていないにも関わらず、中に住む彼らが村から外へ出たがらないことにあると、Abu Bakr氏は言う。彼らを迎えるマジョリティの社会のなかに、それを受け入れる基盤がない限り、社会的差別や制裁を恐れて、とても怖くて出られないのは、当然のことではないか。この日もうちのスタッフと彼との間で、ハンセン氏病の伝染性についてちょっとした議論があった。うちのスタッフは、映画のテーマを聞いただけで、怖くて見れないと言うのだ。いずれにしても、日本でもまたこの病は長く隠蔽され、罹患者とその家族は移動や職業の自由の制限を長く余技なくされてきたわけで、日本でこの作品が上映されれば、それはとてもレレヴァントなものとして、共通の議論の土壌を生み出すのではないだろうか。

Abu Bakrさんが現在取り組んでいる卒業制作の内容を聞いてみた。最近、エジプトで死刑執行があったのだが、絞首刑の現場でロープが切れてしまい、その結果、その死刑囚が釈放されてしまうという事件があったとのことで、それに取材したのだという。なんでも、フランス法に基礎をもつこの刑法では、「絞首刑」のことを単に'Hanging'としか規定していないため、'Hanging'の結果死亡しなければ、その死刑囚は、受刑を終了したことから、直ちに出獄を許されるのだという。映画をよく見るうちのスタッフが、このテーマをモティーフにしたフランス映画を見たことがあると言っていたから、フランス法に基づく国では、こうした信じがたい事故が理念系としては起こりうるし、実際に起こってもいるのだろう。その娑婆に戻った元死刑囚に取材したのかと聞いたら、残念ながらその本人にたどりつくことはできず、その不名誉な刑執行に立ち会った人々からの聞き取りを映画化しているのだという。こんなウソのようなホントの話、久しぶりに聞いて、えらく感動というか、興奮してしまったのだった。

2週間の日本でのプログラムでは、日本工学院のフルサポートを得ながら、ほぼ毎日、映画制作にあたってもらう。日本がはじめての二人だから、不安も多いだろうが、日本社会のどこに着目し、何を切り取り、映し出してくれるだろうか。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

先週はじめ、四方田犬彦さんが、新著をわざわざ送ってくれた。その名も、『濃縮四方田』(彩流社)。とうとう100冊を突破した四方田さんの著著のクライマックスだけを集めた、ベスト・オブ・ヨモタ。ベスト版だけでも500ページを超える大作で、1週間でまだ300ページにさしかかったところ。この現代の知の巨人と自分の人生がクロスする場面があったことは僥倖としかいいようがないが、最初の出会い、2002年にニューデリーで開催された岡倉天心没後100年記念シンポジウムのことは、いまでも鮮明に覚えている。デリー大学教授のブリジ・タンカ先生が企画し、国際交流基金が支援したこのシンポジウムには、四方田さんのほかにも、北一輝論の松本健一さん、最近物故された美術史の若桑みどりさん、日本に向けての発言や旺盛な執筆で著名なテッサ・モーリス・スズキさんなど、そうそうたる顔ぶれが集っていた。コーヒーブレイクの時間に、「表象論ばかりじゃなくて、もっとリアルな話も聞きたいですね。」などとわかったようなことをしゃべったら、「岡倉天心のシンポジウムで表象論をやらないでどうするのよ。」と、若桑先生に一撃のもとに撃墜されてしまったことも、昨日のことのように思い出されてくる。シンポジウムが終わった翌日、四方田さんのデリー案内を引き受けた。そのとき最初に尋ねたのが11世紀、この地に最初のイスラム王朝として建った奴隷王朝の祖、クトゥブディーン・アイバクの手によるクトゥブ・ミナールだった。四方田さんの注意は、その天高くそびえる古代イスラム建築ではなく、それ以前のヒンドゥー王朝時代からこの地におかれたいたナゾの鉄製のポールに注がれていた。このポールに背中をくっつけて両手をまきつけ、手の先がボールの反対側でくっつけば、願いが適う。この地の人々はこう信じて、来る日も来る日もポールに身体をこすり付けてきたのだった。そのせいで、人の手が触れる部分だけ見事に変色して、ツヤツヤと光沢を放っている。当時、「摩滅」について本を執筆中だった四方田さんにとっては、これこそが理想の摩滅と映ったようだった。それから間もなく、『摩滅の賦』という著書が上梓された。

2006年1月、まもなく文化庁の長期派遣となる文化交流史のプログラムでパレスチナと旧ユーゴスラビアへと旅立たれる四方田さんの壮行会を、赤坂のカレーやさんで催した。この文化交流史を通して四方田さんが見て、聞いて、考えたことが、『見ることの塩』という作品となり、僕は、またここからパレスチナという占領された場における文化と政治の問題を理解するためのたくさんのヒントをもらうことになる。そして、この壮行会のとき、四方田さんから飛び出てきた提案こそが、世界の翻訳者を集めての村上春樹についてのシンポジウムの開催で、四方田さんが1年の旅から戻ってこられてから、僕は、この大きなイベントを手がけるという、またとない僥倖に恵まれることになった。四方田さんのほか、柴田元幸さん、沼野充義さん、藤井省三さんという、素晴らしい案内人に先導されての企画は、この4人が協力してくれることになった段階で、成功を約束されていたのかもしれない。

300ページまで読み進んではみたものの、東西の理論を駆使して何事かを論じるくだりでは、専門用語の羅列で目がまわり、結局のところ、字面だけを追って未消化なまま。それでも、新しい知的刺激を求めて、ページを追う手はなかなか休まらない。こうして、毎日、寝不足が続いている。とにかく、披瀝される知識の量がハンパじゃない。当然ながら、頭の中が全部本になっているわけじゃないから、あの脳ミソにはもっといっぱいのことが詰まっているはず。とにかく、いつそれだけの本を読み、理解し、整理し、そして書くのか。同時にぼくら凡人と酒だって飲むのだから、この人と僕が同じ24時間を与えられていることがどうも信じられない。でも、問題は知識の量ではないと、僕は気づいている。彼にあって僕に乏しいものは、この世の中を理解したいという飽くなき欲望であることを。ベスト・オブ・ヨモタを読む体験とは、「オマエにも本当は眠っているだろ、その欲望が?」「目覚めて、探求せよ!」との氏のささやきに耳を傾けることのように思われる。
半年ほど前に仲間の日本人たちとはじめたタブラ教室が、昨日から、5回で1ラウンドのコースの4ラウンド目に入った。1ラウンドで5つから7つくらいのリズムを覚える計算だから、すでに20弱のリズムを知っているはずなのだが、先生に実例を示してもらわずに自然と叩けるリズムは、せいぜい5つ程度か・・・僕は割りと時間がとれる方だが、仲間のなかには日々イラクだガザだと飛び回っている記者さんもいるから、結構休みも多く、そしてなによりも、自宅で個人練習をほとんどしない体たらくなものだから、これでは上達もおぼつかない。

そんな停滞状況を見かねて、この教室をアレンジしてくださっているベリーダンサーのかすみ先生が練習が終わった後にお出ましになり、厳しいお叱りならぬ、力強い激励を賜る。かすみ先生の楽団のメンバーを講師に迎えているので、あんまりしょっちゅうキャンセルしていると予定が立たず、本当はえらく迷惑を蒙っているはずなのだが、カイロの地で10年以上プロのダンサーとして活躍するかすみ先生が放つポジティブ・オーラにすっかりやられてしまい、気がついたら、僕らは5月に仲間うちで発表会をやろうというふうに、見事乗せられてしまっていたのだった。

練習もいい加減だが、夢だけは大きい、ロックにかぶれていた高校時代の自分は、20年たっても根は変わっていないなーと思う。前回、3ラウンド目に入るときには、「そろそろ曲をやってみたい。」といういささか気の早い希望を述べ、先生のムムターズ氏を狼狽させることしきりだったが、このときもかすみ先生はそれを後押しして、新しいことにチャレンジさせてくれた。まあ、熱しやすく醒めやすいのが僕のようなお調子者の特徴で、結局、レッスンのとき以外はほとんど楽器にさわらないから、うまくなるわけはないのだが、それでも、コンポから流れる曲にあわせて一生懸命タイコを叩くのは、爽快な体験である。昨日は、マクスームNo.1の高速リズムと、ソンバーティ・スガイヤルのコンビネーションによる「ヘルワ・ダイイル・シッバクハー」という曲に挑戦した。下から見上げると、窓際に美しい女性が立っている、という情景を歌にした楽曲だそうだ。普段練習してないから、マクスームを一番早いスピードで叩くのは、800メートル走のようにしんどく、腕が痙攣するわ、息はあがるわで、目もあてられないのだが、それでもまがりなりにも楽曲にあわせて叩けることは、やはりなにがしかの充実感をもたらすのだった。

今後のレッスンは、
① 新しいリズムを覚える
② 新しい楽曲に挑戦
③ 5月に発表する曲を仕上げる
という3つを毎日の課題とする「てんこもり」状態だが、具体的な目標をもつことで、僕らも少しは気合が入るかもしれない。発表会では、タブラに加えて、歌やアサーヤ(棒をふりまわしながら踊る南エジプトの民族舞踊)もやってみようという話にもなり、さらには、かすみ先生まで踊ってくれるかもしれないという話にもなり、一夜明けてみると、もしかしたらご馳走になっていたビールに激しく酔っていたのかもしれないと思われるほど、大胆な企画なのだが、まあ、夢を見ながら、楽しく、和気藹々と続けていきたいと思っている。

かすみ先生のブログ発見。http://kasmibellydance.blog75.fc2.com/
ホンモノのベリーダンサーがどんな毎日をおくり、何をお考えあそばされているのかが伺い知れる、魅力的なサイトです。同ブログでは、この1月にカイロオペラハウスギャラリーで実施した木下和さんの油絵展のリポートを三回にわたって書いてくださっています。以下引用させていただくかすみ先生の感想を読んで、この仕事が出来てよかったと、心から思えたのでした。

今回、木下画伯の絵のすべて、その色彩、タッチの芸術性の素晴らしさに感激しただけでなく、この個展が1月1日、2009年の幕開けの日に開催された事 は、何か大きな意味があるよう感じられました。イスラエルの戦争、世界的経済危機、異常気象 いろいろ大変な事が世界中で起きています。「遺されし者よ」厳 然とある過去を歴史を見てきた遺跡、その遺跡が問いかけます。「この今をどのように未来に伝えていくのか。」憎んだり嫌悪したり、自分だけが利益を得よう と少しでも有利になろうと争ったり、それらは全て心の壁を作っているのだと思います。その壁の中で優越感を持ったり、劣等感を感じたり。良いも悪いも、高 いも低いも相対的なもので、絶対な人間なんて存在しないのですよね。だれでも必ずいつかは死ぬし・・・自然と時空を超えて、人種を超えて、自分も他人もな い、今こそ大きな心の広がりを持って助け合い、一瞬一瞬を真摯に目覚めて生きていこうではないか!私はそんなメッセージを受けたような気がしました。

1月27日、オペラAIDAを鑑賞。
恥を忍んで言うが、これが僕のオペラ初体験。文化交流を生業とする者がこんなことでは困りますね。

とにかくも、カイロにやってきたら、そこには日本の援助で20年前に作られたカイロオペラハウスがあり、これまで敬遠してきたクラシックやオペラと業務上おつきあいすることが多くなったので、ときどきではあるがカイロシンフォニーの定期演奏会に顔を出したりして、少しずつクラシック音痴を脱しようとしているのところではある。田村響さんとカイロシンフォニーの共演も、そんな縁で自分に訪れた貴重な機会だったわけである。

AIDAは、古代エジプトのロマンスに着想を得、19世紀、ちょうどカイロオペラハウスの創設にあわせて、イスマイール・パシャからヴェルディに委嘱された作品で、その仲介とオリジナルのアイデア提供は、当時カイロ考古学博物館館長だったオーギュスト・マリオットが担ったとのこと。

エチオピアの王女アイーダはエジプトの王女アムネリスに奴隷として仕えているが、エジプト軍司令官のラダメスと相思相愛の関係にある。愛する男が自分の祖国を討伐に行くというプロットが、すでにして悲劇を予感させる。そこでラダメスは、身分を隠した国王を捕虜として連行するが、王はアイーダを使ってラダメスから次の行軍の情報を聞き出す。その事実が知れてしまい、同じくラダメスを愛するがゆえに助命を嘆願するアムネリスの願いむなしく、処刑されるラダメス。その処刑に道連れとなり、心安らかに心中していくアイーダ。筋書きはとてもシンプルだが、叙情を表現する優れた音楽の力が、感動をおしあげていく。

交響楽団同様、あまり上手だとの評判のないカイロオペラだが、イタリアとの共同制作で、北京五輪に総力をあげてもちこんだ作品だからだろうか、オケの演奏にもムラがなく、そしてセットがなによりも美しくて、幕が開いて舞台が入れ替わるたびに、客席から拍手が沸いた。オペラ初体験の僕自身も、多いに楽しむことが出来た。

なにせ、チケットも安いので(500円程度)、ヨーロッパのオケの演奏レベルを期待しなければ、とても気楽にクラシックを堪能できるカイロライフ。この3~4年のカイロ滞在を生かせば、長年のクラシックへの食わず嫌いも克服できるかもしれない。



この週末は、事務所の図書室から加藤典洋の『戦後的思考』をひっぱりだしてきて、夜な夜な読みふけった。この前著になる『敗戦後論』に続いて、戦後日本の精神分裂状況をいかにして克服すべきかを考えに考え抜いた同氏の思考の足跡を、読者も忍耐をもって、追体験することになる。戦後左翼の進歩的知識人のように、戦時中皇国思想に染まらなかったとの善性のポジションからその他大勢を非難するのでもなく、保守思想家のように、戦前的価値の呼び戻しを唱えるでもなく、吉本隆明のように、戦時下の全体的気分に染まったがゆえに、あるいは三島由紀夫のように、戦時中の徴兵から逃避した卑怯さと天皇の責任の取り方を重ね合わせることによって、敗戦によってボッキリと折れてしまったところを基点にして、戦後の哲学を築くことが、今もなお求められていると、加藤氏は言う。グローバリゼーションの時代にいまさら、60年以上前の国の戦争責任を議論して、あえてナショナルな議論に火をつける必要もあるまいとのリベラル勢力からの批判に対して、この60余年、日本政府がきちんとした対応をしてこなったがゆえに、いまもなお、我々の言論は、それを受けとめる他者(アジア諸国)から容認されえないのだとし、簡単に国というものから自由にはなれないのだと、警告を発する。加藤氏のこの2冊の著書は、右からも左からも多くの批判を受けたようだが、戦争責任をめぐっていまだに「謝罪」と「失言」を続ける日本の精神分裂状態を見るにつけ、加藤氏の視座をいかに多くの人々が共有するかこそが、本当の日本の戦後の終焉をもたらすのだと思わずにはいられなかった。

1月25日、13:45。15:55発ウィーン行きの飛行機に乗ってもらうためには、ずいぶん遅れて市内を出てしまった一抹の不安をかき消すように、僕と田村氏は車中でコシャリをかきこんだ。

前日のカイロ・シンフォニー・オーケストラとの共演は、田村氏の気合と熱情のこもった演奏に引っ張られるように、シンフォニーの演奏も熱気を帯び、「いつもと違う」と感激した観客のスタンディング・オベーションで会場は沸いた。このあとに二曲の演目が残っているにも関わらず、アンコールの声がこだまし、田村氏がショパンの「子犬のワルツ」の高速プレイでさらに観客を沸かせた。演奏が終わって楽屋に戻ってきた彼曰く、いざイスに腰掛けペダルに足をかけると、なんと、ペダルがあたる床の部分にちょうど穴が開いていて、いつもの角度で踏むことが出きず、ずいぶん苦労したとのこと。そんなことを微塵も感じさせない、感動的な演奏だった。

弱冠20歳にして、ロンディボー国際音楽コンクールで1位になったピアニスト田村響さんは、現在22歳。まだあどけなさの残る顔立ちがその圧倒的若さを物語るが、接してみてすぐに、こちら側はその考えを改めなければならないと痛感させられる。小さい頃から大人とつきあってきたということ、そして音楽を通して多くの人と出会い、世界を見、さまざまなことを学び吸収してきたことが、22歳にここまで成熟した思考と感性を育てたのだろうか。昨年7月のカイロでのソロ公演、そして今回のシンフォニーとの共演の両方を通して、ずいぶん長い時間、今をときめく名ピアニストと一緒の時間をすごすことができた。その事実だけでも光栄なことだが、音楽のこと、人生のこと、世の中のことを話しながら、彼の生き方、ものの考え方に共感し、多くのことを学んだことが最大の財産と思う。

公演前のメディアのインタビューで、今後の夢を問われた田村氏は、それは3つあると前置きしたうえで、
1.家庭をもつこと
2.世界中を旅すること
3.世界中でピアノを演奏すること
とした。なにかピアノや音楽にまつわる話が出るかと思ったら、この順番で語られたことに、記者も僕も驚く。音楽は大事だが人生の一部。人生を謳歌し、人として日々成長していくことが、音楽にとっての肥やしになると言う。西洋古典音楽の世界では僻地といっても間違いではないカイロに二度も来てくれたことにも、一期一会的な彼の思考が背景にあったことがわかる。相手が上手いかそうでないかは一番大事なことではない。相手を理解しあいながら、一つの音楽を作っていくプロセスこそが大事である。そして、新しい土地、新しい人との出会いから得られるエネルギーを糧に人間としての自分に磨きをかけていく。

同じ記者から、ガザでの戦争について感想をきかれたときも、「戦争は悲惨だ、多くの人が傷つくのは悲しいと言うだけなら簡単。クラシックの戦争をテーマにした名曲が感動を与えるのは、作曲家が実際の戦争自分の内側から身をもって体験したからこそ。その意味では、自分も戦争というものをこの目で見て感じる必要があるかもしれない。でも、死にたくはないですけどね。」と、最後に茶目っ気を残しつつ、やはり人生経験を通じて人間として大きくなることの重要性を述べられた。

公演後の打ち上げにて、アナリーゼをどの程度やるのか聞いたときも、やはり同様の考え方が基礎にあると思わせる答えが返ってきた。本を読んで言葉で理解する前に、楽曲を鑑賞して共感するための自分のキャパシティを成長させなければ頭でっかちになってしまうと、いたずらに字面だけ追ってわかった気になることに対する戒めを語っていた。

リハーサルの場面でも、指揮者や共演者に言葉でいろいろ注文をつけるのかと思いきや、言葉で言ってしまうことを極力控え、自分の演奏でもって自分がやろうとしていることを伝えたい、と言う。言語化するよりも前に、本質を理解することが大切であるとの哲学が、あらゆる場面で彼の態度、反応に現れていた。

いかに美辞麗句を述べる天才でも、自分がしゃべっていることを心の深いところで自分のものに出来ていない人は、いずれ自分の言葉を簡単に裏切ってしまうものかもしれない。自分のなかで思考や感情が熟成することを大事にしていれば、本質はいずれついてくる。それが、田村響さんから僕が学んだとても大切なことだと思っている。

車は渋滞に巻き込まれ、空港に到着したのは14:45。あと10分でカウンターが閉まるというタイミングだった。

公演に次ぐ公演の多忙なスケジュールは、本拠ザルツブルグに戻った翌日から、また休みなく続くそうだ。いずれ間違いなく大物になるであろうそんな風格を漂わせる、それでいて陽気で気さくな愛されるキャラクターの持ち主。田村響の今後の活躍のその行く先は未知数で、計り知れない。

カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新コメント
[05/13 Backlinks]
[12/27 すっかる]
[12/26 やもり]
[11/25 すっかる]
[11/25 跡部雄一]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
すっかる・ちーにー・しゅがー
性別:
男性
職業:
国際文化交流
趣味:
カレー
自己紹介:
インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]

Template by MY HEALING ☆彡