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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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12月7日から11日までの犠牲祭休暇に週末をくっつけて、5泊6日の旅に出た。
エジプトに来てはや1年。エジプトといえば誰もが行きたがる南の一大観光地、ルクソール、アスワン、アブシンベルにはじめて出かけることができた。

ルクソールまでは飛行機で1時間のひとっとび。そこからナイル川河畔で待つクルーズ船に乗り込み、4泊5日の間、船に乗って食べて寝ていれば身は勝手に南へと流れていくお気楽な旅は、古くよりエジプト観光の定番だったらしいが、通の旅人からは邪道とされてきたともいう。

初日はルクソールに留まったまま、手配してある車とガイドさんが東岸のカルナック神殿、ルクソール神殿を丁寧に案内してくれる。この日は寝て朝になってもまだルクソールのままで、早朝から今度は西岸へと連れ出され、王家の谷とハトシェプスト葬祭神殿を見学。それなりに感動するも、もともとファラオニック・エジプトにそれほど愛着のない自分にとっては、ガイドブックでも十分に見たものの再確認といった感もあり、そこそこの感慨が沸いてきた程度というのが正直なところ。

二日目の夜から船は上流へと動き出し、エスナの水門を抜け、朝になるとエドフという町に着いていた。午前中に馬車でつれていってもらったホルス神殿、そしてさらに南下したコムオンボにあるハトホル神殿は、ともにグレコローマン時代の建築なのだが、様式はまったくファラオニックなままなのが意外だった。それも、ローマ時代にキリスト教化が進んで以降は、土着のヤオロズ神をあがめることを禁止したらしく、ことごとく神々のレリーフが削られてしまっており、変わって十字架などキリスト教のイメージが刻まれていて、歴史の移行期の爪あとが見られるのが面白い。

三日目の夜を明かし、四日目に起きてみたら船はアスワンに着いていた。
この町はエジプトというよりはアフリカ的な匂いがし、川から離れると砂漠が広がっているにも関わらず、川の周囲はうっそうと草木が茂り、ナイルに浮かぶ島々は湿地帯の様相を呈し、浅瀬で魚を狙う色とりどりの野鳥を鑑賞することができる。朝一番でアスワンハイダムへ向かったのだが、このダム建設で多くの村が沈み、100万人強のヌビア人が移住させられたと聞き、ダムが出来る前はもっと美しく豊かな自然がここにあったであろうことを想像してみた。洪水の管理、耕作地の確保、電力の自給など、近代化の果実を得る見返りに、失ったものもまた大きかったということのようだ。4日間ずっとつきあってくれたガイドさんはアスワン出身のヌビア人であり、たんたんと事実を述べつつも、彼の表情や表現には複雑な陰影が見てとれた。クルーズ船のサンデッキで彼が語ってくれた言葉が印象に残った。

「ナセル政権、北のエジプト人たちは、潜在的なヌビアの力を恐れていたから、それを削いでしまうこともダム建設の隠れた目的にあったはずだ。」

ラムセス二世がこの地にアブシンベル神殿を建てたとき、それを見ていた土地のヌビア人たちは、これほどの強大な文明を自分のものにしてみたいと願うようになり、それが第25王朝においてヌビア人による国家統一を導いたとも、ものの本には書いてある。近代以降も、この地はヌビア人による事実上の自治が行われていたらしく、19世紀以降、ヨーロッパの探検家や考古学者が恐る恐る湿地を分け入り、土地の人たちとはじめて接触していくなかで、徐々にヌビアの地が植民化されたエジプトに統合されていったということらしい。

4日目の夕方は、ボートに乗ってヌビアの村に出かけた。僕ら一般人に観光プログラムとして見せる村だから、相当世俗化しているだろうとは思っていたが、四六時中観光客を入れ、茶を出し、ワニと遊ばせ、ヘンナを塗るサービスをするヌビアの家族を見ていると、純粋な伝統文化などというものはありえないとは知りつつも、やはり近代化が導いた喪失を思わなかったといえば、ウソになるだろう。

たまたま、旅に出る前日に、仕事関係で入手した1本のドキュメンタリー映画を見ていた。それが、NUBAというタイトルで、ヌビア人の歴史と現在をインタビューを中心に追ったものだった。全編アラビア語、字幕なしなので、ストーリーをちゃんと追うことは出来なかったが、最後に一人一人に自分のアイデンティティをインタビュアーが聞くシーンがあって、「エジプト人でありヌビア人でもある。」という回答が一番多かったものの、どちらかというと「ヌビア人」のほうを強調する傾向があった。ヌビア村観光を追え、タクシーでクルーズ船に戻るとき、タクシーの運転手が自分たちの出身を聞いてくるので、日本人だと答えつつ、反対に聞き返してみた。

"I am Nubian."

というのが、彼の返事だった。

なにぶんお気楽な豪華客船の旅なもんで、焦点が定まった感想もないわけだが、ヌビアという存在に対する関心がちょっとだけ膨らんだようには思っている。旅の締めくくりはアブシンベル。満月の夜、音と光のショーを見に出かけたが、ショーそのものよりも、開始前に暗転したときに、月明かりを反射してその輪郭をくっきりと浮かび上がらせた大神殿、小神殿の姿が、いちばん美しく見えた。
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現代日本写真展の開催、日本からの専門家受け入れによる講演会の実施など、それなりに忙しい日々をくぐりぬけ、待ちに待った夏休みがやってきた。カイロに来て初めての夏休みはシリアで過ごした。

5泊6日という強行軍だったが、ダマスカスに住む友人や彼女が紹介してくれた現地旅行代理店の助言を得て、

アレッポ(2泊)→アパメア→ハマ→クラック・デ・シュバリエ→
パルミラ(1泊)→マアルーラ→ダマスカス(2泊)

という8箇所巡りを実現することができた。

2歳と0歳の娘をしょいながら、城や山を登り、曲がりくねった中世の路地をさ迷い歩くのは、根をあげそうにシンドイ瞬間もあったにせよ、振り返れば忘れがたき印象を残した。文明の十字路として、5000年以上前から文物が行き交う地であったシリアは、古代の偶像崇拝期、ユダヤ教期、キリスト教期、イスラム教期の歴史的遺物が重層的に堆積していて、街をそぞろ歩くだけでその歴史的変遷を体感することができる。

アレッポのシンボル、アレッポ城は、紀元前2000年頃のネオ・ヒッタイト族までさかのぼることができるという。アパメアの神殿跡は、紀元前3世紀、アレキサンダー大王が築いた帝国を受け継ぐセレウコス朝シリアのもの、シリア一の観光地パルミラはローマ帝国とペルシャ帝国に挟まれながらも独立した帝国を繁栄させた往時の栄光を偲ばせる。ダマスカスのウマイヤド・モスクは、ウマイヤ朝時代715年に建てられた最古の部類に属するモスクで、それ以前に聖ヨハネ教会として使われていたため、二つの宗教様式が融合した建築となっている。

もっとも感動的だったのが、マアルーラ。ダマスカスから北西に約50キロ。標高1650mの隔絶された山間いに、イエス・キリストが話した言語とされるアラム語を今も使うコミュニティが生きている。ギリシャ・カトリックの聖セルジウス修道院と、ギリシャ・オーソドックスの聖テクラ修道院の二つを訪ねた。聖セルジウス修道院の売店では、アラム語の賛美歌をおさめたCDを発見。この旅の目的のひとつが達成された。なぜかというと、インド駐在中に友情をあたためたロック・バンドIndian Oceanの代表曲"KANDISA"が、このアラム語で歌われているからだ。起源二世紀にシリアからインド南部ケーララに渡り、今もインドの教会でアラム語で歌い継がれている賛美歌を、バンドのベーシスト、ラフルが編曲し、現代的アレンジでよみがえせた。いまは遠くつながりの薄いインドとアラブ世界が、古代にはさまざまな人やモノの交流でつながっていた証左を、ぼくたちは耳で確かめ、心を共鳴させることができる。今回のシリア旅行では、このKANDISAの原曲を探したかった訳だが、ずばりとはいかないまでも、現在のシリアに残るアラム語の讃美歌を音源として入手することができた。2枚購入し、1枚をインドに送る予定。

もうひとつのシリアの楽しみは食。よくレバシリと称して、アラブ料理の最高峰をレバノンとシリアに求める説があるが、頭よりも胃袋で実感。食材のおいしさ、調理法、盛り付け、すべてにわたって、芸術的。アレッポで食べた、ナスと肉のバーベキュー、そして旅行中5杯も飲んだレモンジュースとミントのミックス(POLO)が絶品。そして、最後にダマスカスの有名なお菓子やさん、SEMIRAMISで買ってかえったお菓子たちのおいしいこと。もういちど、このお菓子のためだけに訪ねたいくらいである。

国際政治の世界では、いつもアメリカに目をつけられ、傍からみると危険な国のようにおもわれがちだが、エジプト人より控えめで、そしてエジプト人同様に日本人好き、そしてホスピタリティに満ち溢れた人々にもてなされ、忘れられない旅ができることうけあいである。自身をもって、シリア旅行をオススメしたい。

エジプトは多様な姿をしており、そして実に多くの観光資源に恵まれた国だ。4月19日土曜日、カイロ大学文学部日本語学科の学生さんたちが企画した日帰りツアーにもぐり参加させてもらい、そのことを痛感した。

行き先は、シナイ半島。紅海のリゾート地、RAS SUDR(ラス・スィドル)。大学生が行くところだからそれなりにシャビイなのだろうと高をくくっていたら、なかなか立派なリゾート施設があってびっくり。清潔なゲストハウスやおいしいピザが食べられるイタリアン・レストランなどもあって、駐在員の家族でも満足できる環境が整っていた。

生後2ヶ月の二女を連れていけるかどうかも悩ましいところで、朝カイロ大学で実際にバスを見るまで判断を保留していたが、エアコンもばっちり、かつ見栄えもまずますのバスを見て、家族全員で参加することに決めた。バス代、施設(ゲストハウス2部屋とビーチ)利用代込みで大人一人あたり55ポンド(約1,100円)は、結構お得感がある。

海の透明度は、湾岸特有のもの。ドバイでも驚いたが、ここのキラキラ度はたぶん世界有数。逆に綺麗すぎて、珊瑚もフジツボも海草もなんにもなくて、よって魚もほとんどいないのが、潜り好きには物足りないところか。潜り専門の人はさらに300キロ南下して、シナイの先っぽ、シャルム・エル・シェイクを目指すのだ。

さて、カイロ大学の学生たちである。30名強の学生たちの8割以上が女性。そして女性の8割以上がヘガーブ(スカーフ)を被っている。この女性たちの海水浴というのが、どうにもイメージしにくいのだが、彼女らはやはり水着になるということはなく、服を着たまま、水際でパシャパシャやっている程度。男がいるところでは絶対にフィジカルな女性らしさを顕示してはならぬのだ。

ところが、だ。日が紅海にポツンと沈みかけたころ、巨大スピーカーからボンボンとアラブポップを流し、学生たちのダンス大会開始。ヘガーブをつけたおしとやかだったはずの女学生たちが、腰をクネクネ、手をシナシナさせながら、妙にセクシーにベリーダンスを披露してみせるのは、どういうことだ!歌や踊りが大好きで、若さをほとばしらせる彼らは、他国の大学生となんら変わることがなく、ほほえましかった。でも、バスのなかでバリバリに音がひび割れるほどに音量を上げて歌い踊り狂うのだけは、ご勘弁を!

エジプトは、ピラミッドとミイラだけではないということを印象づけてくれた、ささやかな日帰り旅行だった。子連れだとなかなか遠出が難しいけれど、ぼちぼちと旅をして、ぼちぼちとこの国のさまざまな表情を紹介できればと思う。

リゾートの案内は、以下URLを参照ください。
http://www.lahacienda-resort.com/
4月14日から1泊で、4度目となるアレキ出張。現代日本工芸展が13日に終了したので、その撤収作業のために、現地事務スタッフ1、セキュリティスタッフ2、運転手1と自分の5人で出かけた。


会場となった美術館、共催者のエジプト文化省との間で、業務の進め方をめぐってゴタゴタが続き、毎回のことながら苦労の多いイベントとなった。インドでもしかり、日本のスタンダードでは何でもない当たり前の作業が、こんなにもドラマチックに展開することに慣れてしまうと、帰国後のリハビリがいよいよ大変なことになるかもしれない。

一番驚いたのは、先方の主張を受けて月曜日を休館としたのに、月曜日に作品を見たという”アーティスト”から事務所に電話がかかったきたこと。月曜日に閉じるか閉じないかというシンプルきわまりない論点も、カイロからの電話ではまったく埒があかないため、高価な工芸作品の安否を第一に考え、最後の月曜日にも「うちが雇った」警備員をはりつけることにした。

美術館に着すぐに、ダッシュして作品の状況をチェック。盗難、破壊は、幸いにも、一件もない。約2時間かけて64点の作品を梱包、さらに1時間ほどかけて木箱をボルトでロックし、最後の2時間で木箱16箱および「うちがカイロからかき集めた」展示台45点を、
「うちが雇った」ポーターに2階から1階へ下ろさせ、「うちが雇った」運送業者のトラックに積み込んだ。

午後3時、晴れ晴れした気分で会場を後にし、せっかくだからと夏に予定している現代日本写真展の会場候補、Alexandria Center of Artsへご挨拶に出かけた。同じ政府系の建物と組織でこんなにも違うのかと、驚きあきれた。こちらは、1888年築のクラシックな建物に6年前に総入れ替えした新しい設備・機材が納められ、良質な環境で展示、舞台公演、映画上映、講演会、シンポジウム、ワークショップなど、マルチなイベントをカバーしている。なんといっても、何十人ものスタッフがそれぞれに自分の持ち分で忙しそうに、且つ快活に動き回っている姿に感動。撤収作業のジーンズ姿のままだったので、代表者とは今回は挨拶だけと思って訪ねたが、「いつがいい?」とさっそく秘書を呼び、あれよあれよと8月初旬のスケジュールがブロックされた。

帰りの車中では、カイロっ子のスタッフ4人が、アレキサンドリアの悪口に花を咲かせる。というのも、先の展示会場から次のCenter of Artsまで行くのに、10人以上の歩行者に道を聞き、右往左往したあげく、1時間半も費やしたのだ。「10人が10人、みんな違うことを言う」というのだが、特に際立った論点は、ここアレキでは、地下道・トンネルのことを「橋」(コブリ)と呼ぶということ。「コブリまで言ったら左に曲がれ」「コブリを越えてまっすぐ行け」というようなガイドを頼りにしたもので、われらがカイロっ子はどこまで行っても橋に遭遇せず、また次の人に道を聞くことになる。
そんな言葉一つに、230キロ離れた街の文化の違いが見てとれるのが面白い。

悪口の話はこの辺にして、カイロでもアレキでも関心するのは、ここでは車中の人が気楽に車を止めて道行く人に道を聞き、聞かれた人はどんなに忙しくても立ち止まって、自分のもっている知識を総動員して一生懸命説明してくれる。この日も、オーバーヒートした車のボンネットを開けて途方にくれた人にまで、うちのスタッフは道を聞いていた。「さすがにこの人は・・・」と僕は怪しんだが、やはり、当の被害者も、ツバを飛ばしながら一生懸命教えてくれた。

この国のこの人間臭いコミュニケーションが、僕は好きになった。
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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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