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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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いろいろと書きたいこともあるにせよ、公務の旅行であり、個人が特定されると迷惑にならないとも限らないので、断片的なエピソードと一般的感想だけ書いておくことにします。

二日目の朝。起きて窓から外を見たら、青く美しい地中海のビーチが広がっていた。なんて、美しい!
街を歩いても、緑がいっぱいあって、道にはゴミも落ちてなくて、公園や美術館など公共の施設もばっちりと整備されていて、なにもかもが美しい街だ。

憎しみと流血にまみれた土地というイメージをもっていったら、その影すら認めることが難しくて、なんだか拍子抜けしてしまう。

(いよいよ、イスラエル人と会うぞ!)
となぜか、肩に力が入ってしまっていたが、美術館、シアターなど芸術関係者、そして大学の日本語や日本研究にかかわる先生方、みんなやさしくて魅力的な人たちで、そして、日本と日本人のことが大好きだった。学生をはじめとした若者の間では、日本のマンガやアニメが爆発的人気になっているという。新聞や雑誌で確認したら、映画館では『トウキョウソナタ』が商業上映されていたし、聞けば、『崖の上のポニョ』も封切られ、人気だったとのこと。大学の日本研究でも、文学や政治学ではなくって、マンガ、アニメ、映画などのポップカルチャーで論文を書く学生や院生が圧倒的に多いのだそうだ。大学に入る前からの趣味の延長で大学での学問を継続できるのもうらやましいが、そういうサブカル的研究をサポートする教授陣を見ていても、この国がアメリカと地続きであると思った。

三日目は朝から夕方までパレスチナ訪問。といっても、時間の関係で東エルサレムとラマッラしか行けなかったけれど。こちら側も、チェックポイントこそ緊張したが、街の中は短い滞在のなかでは平和そうに見える。小さい男の子たちが、僕の姿を見て、「ジャッキー・チェン」とか「ブルース・リー」とか声をかけてくるのも、エジプトと同じだ。ただ、イスラエルと違って、街は全体に緑少なく、オシャレなお店やモールのようなものも見当たらない。そして、自分たちのことを語り合う芸術空間~ギャラリー、シアター、映画館~がわずかしか存在しない。

ラマッラで唯一、プライベートのシアターとシネマテークとして人々が集うアルカサバ・シアターの芸術監督、ジョージ・イブラヒムさんを訪ね、パレスチナの文化・芸術状況についてお話を伺った。ジョージ氏曰く、占領政策が苛烈を極めるにつれて、行き詰ったパレスチナの若者たちが宗教的過激主義に流れていって、それが占領統治をさらに厳しくするという悪循環に陥っている。その連鎖を断ち切るためにも、有為な若者たちが集い、自分たちの文化を創出していく場所が必要で、アルカサバはそういう場所として精力的に活動を行っている。ここ数年で、シアター内の施設を使って、3年間で学位をとる演劇学校を作り、1年生12名が学んでいる。ゆくゆくは、演劇だけでなく、映画や美術なども含んだ総合的芸術アカデミーにしていきたい。

こんなことを、彼がいつも唱えるキーワード、"Culture is the only weapon(文化が唯一の武器である)"を交えて、語ってくださった。いまは60代になる彼にとって、若い頃は、文化や芸術を志そうと思っても、パレスチナで手に入るものはなにもなく、独力で道を切り開いていったのだという。そして、非対称的になんでも得られるイスラエルが隣から自分たちの首ねっこをつかんでいるという不公正な状況に対して憤りながら、同時に、自分の後進の若者たちには自分が得られなかった機会へのアクセスを提供するために汗をかいている。そうやって茨の道を歩んできた人だからこそ持ちうる「力」が、彼の言葉にはあった。パレスチナの若者が自らの力で立ち、独自の文化を立ち上げながら将来の国づくりをしていくために、日本が微力ながらできることがあるはずで、それをこれから考えていくことを約束して、僕らはアルカサバを後にした。おみやげにジョージさんがくれたのは、昨年亡くなったパレスチナの詩人、マハムード・ダルウィーシュの追悼朗読会を収めたCD/DVDだった。

夕刻までにはイスラエル側に戻ってきた。物質的にも文化的にも豊かな資源にあふれた楽園に戻ってきて、安堵しなかったといえば、ウソになる。テルアビブ市内のDiesendof Center Mall内のCD屋と本屋さんに立ち寄り、映画のDVD4枚と最近はやりの音楽CD3枚、そして、TEL AVIV SHORT STORIESという短編小説集を買った。ホテルへの道すがら、ワインショップで、YARDENという一番人気の銘柄を1本、死海の塩を使った石鹸グッズ専門店で、死海泥石鹸を購入。YARDENは占領したシリア領ゴラン高原産、死海だって西岸の地にあって、どちらの商品も、占領のタマモノだった。

出会ったイスラエル人のなかから、カイロに対する憧れに似た思いが寄せられたのも印象的だった。何人かの人は過去にエジプトを訪れたこともあると言っていたけれど、エジプトがイスラエルとの文化や人の交流の正常化に反対している環境では、怖くて旅行になんか行けないということを、ほとんどの人たちが言っていた。ある文化センターのマネージャーは、僕がカイロから来たと言ったら、自分の父はカイロ、母はアレキサンドリア出身だが、自分自身はイスラエル生まれで一度もエジプトに行ったことがないと話してくれた。イスラエル建国とともにアラブ諸国から追い出されるようにしてイスラエルに移住した人たちの子孫というわけだ。中東で隣り合うこの二つの国が仲良くなれば、その文化的・経済的・政治的なポジティブな影響力ははかりしれないのだが、道はまだまだ通そうだ。

帰国便は、夜中の00:40発。でも、空港はカイロ以上に厳しいセキュリティで行列が出来ていて、思いのほか時間がかかる。カイロでも受けたのと同じような質問をいっぱい投げかけられ、しまいには「兵器は持っていますか?」なんていう、あまりにもストレートな質問まで飛び出す。そんな質問にイエスと答える人はいないだろうが、顔色の変化を見ているのだろうか。

3泊5日の強行軍では何も見なかったに等しいけれど、想像した以上に紛争や対立の構造が具体的なシチュエーションとしては見えてこない。おそらくは、そういう権力や文化の非対称な関係を隠蔽してしまうシステムが強力に作動していて、僕らヨソモノには何も見えなくされているのだろう。そのツルっとしたとらえどころのなさこそが問題だということを、きっと忘れてはいけないのだろう。出国は、真っ白いパスポート、エジプトへの入国は真っ黒い方に押してもらって、一応、滞りなく帰ってきた。家に着いたら、夜中の3時になっていた。
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カイロに来て1年10ヶ月。いつか行ってみたいと思っていたイスラエル・パレスチナに行ってきた。
といっても、私的旅行というわけにはいかない。公用旅券をもって仕事でエジプトに来ている身としては、このパスポートにイスラエルの出入国スタンプが押されたが最後、エジプト・ヨルダン・トルコを除く中東の国で受け入れてもらえなくなってしまう。

なので、正式にイスラエルにある日本大使館に出張を受け入れてもらい、しかも、別途、イスラエル入国のための公用旅券を発行してもらって、出かけた。

使用した飛行機は、EL AL ISRAEL(略してエルアル)という、イスラエルの航空会社。カイロから行ったことのある経験者から聞いたところ、カイロ空港はセキュリティチェックが厳しいから、3時間前には確実に空港に着いていたほうが良いとのこと。忠告に従って早めに出かけたら、確かに、イスラエル行きの乗客専用のチェックインゲートがあって、そこだけで5人くらいの警官がスタンバイしていた。ゲートに荷物を通したら、今度は、ロープを張った4つのチェックインカウンターエリアのなかに、5人くらいのイスラエル人係官がいて、譜面台をおいた4つの島で、一人ずつ、面接(尋問?)を行っている。それが済んだ人は、ION SEARCHとかいうブランド名のついた巨大な荷物検査機で厳重な荷物チェックを受ける。そのあとでようやく、チェックインして搭乗券を受け取ったら、カウンターの脇でエジプト人係官の出国スタンプをもらうことになる。

僕の番になった。
係りの女性が、僕の旅券を手にして、珍しいのが来たという感じで笑いながら、他の4人のスタッフに向かって「オフィーシャル!!」と叫ぶ。僕も、「お手柔らかに」というメッセージを笑顔に託して投げかけた。

係官:イスラエルはどこに行きますか?
僕:大使館と、ヘブライ大学などの学術・文化機関です。
係官:公用ですが、あなたの組織とポジションは?
僕:Japan Foundationのカイロ事務所の次席で、外国との文化交流をやっています。今回の出張もその仕事としてイスラエルの学術・文化関係者と面会します。
係官:あたの荷物を最後にパックしたのは誰ですか?
僕:私です。
係官:その後、誰も荷物に触っていませんか?
僕:触っていません。
係官:ところで、あなたのパスポートには、シリアに行った記録がありますが、これはお仕事ですか?
僕:・・・・・・!!

ま、間違えた。出そうと思って用意していたパスポートは、イスラエル行きのために作った専用パスポートなのに、よりによって、あわてて出してしまったのは、もともともっているほうで、しかも、そこにはイスラエルの敵国、シリアの入国記録があるときた!あー、しまった。

僕:えー、観光ですよ、ハハハ。そうそう、間違えました。本当は、こっちのパスポートを出すべきでした、ヘヘヘ。
係官:まあ、あなたの場合どちらもオフィシャルですから、シリアに行かれたからといって、オリジナルに問題ありというわけではありませんから。
僕:あー、そうですか。ありがとう。
係官:では、あなたについては、荷物検査は不要なので、チェックインカウンターへどうぞ!

ふー、危ない、危ない。こういうときほど、頭のなかでシミュレートしたとおりにやれないんだよね。。。

チェックインを簡単に済ませ、最後の出国手続き。ここでは、イスラエル専用パスポートを自信をもって、差し出した。

係官は、パラパラと真っ白なページをめくりながら、こう言った。
「もうひとつのパスポートを見せて。」
な、なんだよ、こっちに出国スタンプ、押してくれないのかよ??
「もうひとつのって?」
「だから、エジプトのビザがついてるやつだよ。」
「あー、これのこと、ね。ハイ。でも、イスラエル入国だけじゃなくって、エジプト出国も、こっちの白いほうに押してほしいな。」
係官は、もう一人の係官としばらくヒソヒソ話をしていたが、おもむろにスタンプをふりあげ、「もうひとつの」パスポートのほうにバーンとハンコを押してくれた。
「・・・・」
「イスラエルの入国は、そっちの白いほうを出せば大丈夫さ。」

これでいいような気がしつつ、なんだか納得のいかない、幸先のいまいちよくない出国だった。

搭乗ゲート7番付近のカフェには、イスラエル人らしき人々に混じって、ラテン系の陽気な人々がスペイン語で騒いでいた。何の用事で、エジプトとイスラエルを回るのか?キリスト教徒として、聖家族の歩んで道のりをたどるという、神聖なる旅路を歩んでいるのか?それにしては、神妙さのない陽気な騒ぎぶり。これがラテンの力か。


飛行機は1時間ちょっとでテルアビブに着いた。空港は超近代的で、さっそく玄関からしてこの国の経済的・軍事的パワーを思い知らされる。さー、入国だ。今度も「もうひとつのほうに押されたら、これまでの準備が水の泡。始末書もんだ・・・」とおどおどしながら、トイレで緊張をほぐしてから、入国審査へ。スーツのポケットからとりだしたのが、真っ白なほうのパスポートであることを確かめ、やさしそうな雰囲気のお姉さんが座っているカウンターの前に並んだ。

自然体を心がけて白いパスポートを差し出すと、お姉さんは、3秒でスタンプを押してくれた。これで、始末書は書かずにすみそうだ。

空港を出て左に向かうと、オフィシャルなタクシースタンドがある。係りの女性に案内され、きれいなメルセデスのタクシーに乗り込む。夜の市内へのハイウェーは、カイロとは違って、渋滞
することなく、常に120~140キロでぶっとばして、20分でホテルに着いてしまった。

ホテルが近づいてきた頃、運転手さんの携帯がなった。なぜか、彼は携帯を車内のスピーカーシステムにつないでいて、大音量で中年女性の不機嫌な声が鳴り響く。そこではじめて、彼がロシア系であることがわかる。ロシア語の夫婦喧嘩を堪能させてもらったお礼に、下車するときに、「ダズビダーニヤ」と声をかけてみた。さすがに、僕の発音を聞いて、喧嘩の内容を全部知られたとは思わなかったかもしれないが、運転手さんは窓をあけて、名刺を差し出し、「帰りも使ってくれ。」とつぶやいた。

こうして、終わってみればなんということもなく、僕はイスラエルへの入国を果たしたのだった。(つづく)


7月末、夏休みで5泊6日のトルコ旅行に出かけた。トルコといっても広いのだが、今回はのんびりとイスタンブールを亀のスピードで歩いてみることにして。

都市のシステムの機能ぶりという点でみると、どう贔屓目にみても、カイロより圧倒的にすばらしい。
政治のリーダーシップに加えて、行政と市民社会との分業や連携がうまくいっているのだろう。

まずなによりも、公共交通機関の充実ぶりがすばらしい。空港から市内のホテルまで、電車とトラムを乗り継いで、とても快適に、廉価にたどりつくことができた。そのぶん、交通量もひどい渋滞にはなっていないようだし、信号や横断歩道が存在して、しかもちゃんと動いている!路上駐車で四車線が二車線になってしまっているなんていう、どこかの街で始終見かける光景にも出くわさない。

新市街には、銀座のようなホコ天、イスティクラール通りまであって、子連れで車をおそれずにリラックスしてウインドウ・ショッピングを楽しむことができた。

ここには、ロビンソー・クルーソーという、洋書もとりそろえた本屋さんがあって、目利きの店員さんがいろいろガイドしてくれる。僕は、ここで平積みで紹介されていた1940年代のトルコ語小説の英訳"A Mind at Peace"と、トミ・ウンゲラーの"The Three Robbers"を買い、それから店員さんのすすめてくれたトルコ語の絵本を3冊買った。"A Mind at Peace"の帯を読むと、「トルコにとってのユリシーズ」とあって、トルコの現代文学にとって重要な作品であることが伺われる。

そして、CD屋さんも東京のようにはいかないが、そこそこに充実。超カッコイイ男性シンガー、TARKANの新譜を購入。聞いてみたら、なんと全曲英語で歌っている。もともと世界的に有名なミュージシャンではあるが、いよいよ世界というか、英語圏への市場展開に取り組むということだろうか。勝手な意見だが、トルコ語で歌っていたときのほうが、味がある。なんだかこの英語版は、オリエンタル・フレーバーの効いたマイケル・ジャクソンみたいだ。

それから、DVDを物色していたら、近代トルコ建国の父ケマル・パシャの負の面に切り込んでタブーに迫ったとして、去年トルコでずいぶん話題になったという映画、"Mustafa"を発見!!英語字幕つきということなので、文句なしに購入!

こんな感じで、ずいぶん満足度の高い買い物ができた。

歴史的建築物の見物も楽しかった。トプカプ宮殿は、丸一日かけて、日本語の音声ガイドを聞きながら、のんびりと見て歩いた。宝物殿の驚くばかりの装飾品は、インドや中国から献呈されたものもあって、こういうモノの存在感が、帝国の実態というか、パワーを実感させてくれる。そしてもっと驚いたのが、預言者ムハンマドの外套、ターバン、剣、そしてヒゲまでもが保存されていることだ。6世紀さかのぼったイエスの所持品は残っていないから、預言者というのはなんとなく、教えだけが残って姿かたちがイメージしにくい感じがしていたから、ムハンマドのヒゲとか言われても、僕ら異教徒にはマユツバとしか思えない。トルコ人やアラブ方面からの観光客たちが、食い入るように見つめていて、このコーナーだけ渋滞がひどいことになっていたのも、印象的だった。

ブルーモスクの装飾も、息を呑むような美しさだ。イズミックタイルの青が、照りつける太陽に熱せられた外気の存在を忘れ去れんばかりにすがすがしい。オスマン朝時代、イスタンブールからカイロに派遣されたパシャが、お里恋しさのあまり「ガーマー・アズラク」(青のモスク)というモスクを建てさせたというが、本家のブルーモスクの美しさに触れた後では、それも納得がいく。

世界三大料理とされるトルコ料理も、とまらないおいしさ。でも、モノはシリア、レバノン、そしてエジプトで食べられているものとほとんど同じ規格なのだ。東からやってきた遊牧民が打ち立てた帝国がときとともに周囲の文化を吸収して洗練させていったのが、オスマントルコの歴史であって、最初からトルコ人がここまでの域の文明をもっていたわけではない。彼らが最初に範としたのは、文明の十字路として紀元前から高度な文明を発展させてきたシリアなどであっただろう。トルココーヒーだって、もとをただせば、オスマントルコがシリアから輸入したものだという。中国もしかり、帝国というのは周囲のオイシイものたちを貪欲に吸収して、最高の洗練まで引き上げていくものなのだと、頭ではなく、舌と胃袋で実感したのだった。

しかも7月だというのに暑くないイスタンブール。これではカイロに戻りたくなくなるかと思ったら、1年半も住んだこちらの歴史都市にもなかなかな愛着をもってしまったようで、カオティックでどこか田舎くさいエジプシャンに、ほっと懐かしい気持ちが沸いてきたりもしたのだった。

去年の夏休みは、シリアに行った。今年もどこか中東の隣国に行きたいと家族で話し、トルコ、しかもイスタンブール一点絞りで行ってみる方向で計画中。

もともとそれを見越して、去年日本から取り寄せていた本が、鈴木董著『イスタンブール歴史散歩』。当代随一のトルコ史研究者が、愛情たっぷりに街の来し方を書いていて、ガイドブックの平板的情報の奥にある時間的・空間的立体的イメージが浮かび上がってくる。

平行して、同氏が書いた新書『オスマン帝国ーイスラム世界の「柔らかい専制」』も読んでいて、ここ一週間ばかり、心はイスタンブールに飛んでます。


4月19日がイースター、4月20日が春香祭という祝日に週末がくっついたので、4連休のたなぼたが落ちてきたので、思い立って紅海のリゾート地、ハルガダへ行ってきた。

紅海のリゾート地の代表格はシャルムッシェイフだが、ここはホテルなどすべて最高級。他方、ハルガダはやっぱり高級リゾートだけど、ちょっとだけ庶民的。シャルムは第四次中東戦争でエジプトがシナイ半島を取り戻すまでイスラエル領としてイスラエルがじゃんじゃん開発してきた土地であるのに対し、紅海の対岸でアフリカ大陸側に位置するハルガダはローカルの力が強いというのが、この違いの主な原因と、誰かから聞いた。

シャルムより手頃感があるからなのか、一番目に付いたのはロシア語の看板だ。どうやら、ロシア人が大挙して遊びに来ているらしい。ホテル街だけじゃなくて、普通の商店街にもロシア語が乱立しているから、ちょっとエジプトの街ではないような気分にもなってくる。

ちなみに、ハルガダのアラビア語名は、定冠詞の「アル」をつけて「アル=ガルダア」。誰がハルガダということにしてしまったのか、自分が発音できないからといって逆さ読みのような芸当をやるたあ、乱暴なものである。

インドもしかりで、土地の人たちの呼び方で発音できない外国人支配者が、
コルカタをカルカッタ
ムンバイをボンベイ
ベンガルルをバンガロール
などと読み替えてしまった訳だが、この10年強のナショナリズム高揚を受けて、昔の名前に戻ってしまっている。

ハルガダは、いつかアル=ガルダアに戻ったりするだろうか。

充電たっぷり、しかも今日から夏時間、4月26日からはエジプト発の現代音楽の祭典が始まり、日本から来てくれる東京シンフォニエッタとともに、アレキサンドリア、もとい、イスカンダレイヤに行ってきます!
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自己紹介:
インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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