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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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7月20日夜9時、EL SAWY CULTURE WHEELにて人気ミュージシャン、Omar Khayratのコンサートに行った。翌21日から29日まで、このSAWYのギャラリースペースを借りて現代日本写真展を開催するため、この日は午後から会場の設営に行っており、終了後そのままコンサートの開始を待った。

今日のコンサートは、ナイル川沿いのオンム・クルスーム通りを挟む両脇にある施設のうち、川沿いのRiver Hallで行われた。椅子席で800人から900人くらい入る高架下のスペースを使った半開きのホールで、屋根のないカフェテリアのスペースまで椅子を置いて、全部で1200~1300人分の席を用意していたが、ほぼ空席なしの満員御礼状態だった。

施設の代表者、ムハンマド・サウィ氏の紹介の後、登場したのは齢70歳を優に超えていると思われるおじいちゃんとそのバックバンドたち。Omar Khayratさんは中央のピアノに悠然と腰かけ、高音域を多用したロマンチックなメロディーを奏でる。バックバンドは、ピアノとリエゾンで絡むカーヌーン(アラブの琴)、4人のホーンセクション、リズム隊がドラム、レク、コンガ、パーカッション、エレキベース。構成としてはリズムが厚いが、決してドカドカと拍を刻むことなく、おとなしく旋律部隊をサポートしているのが、個人的にはつまらなく感じられる。

そして、なんとなくどの曲も似たようなメロディーと曲構成をもち、一曲一曲過ぎ去っていくたびに記憶から消え去っていく。でも、エジプト人の聴衆は彼の曲の一つ一つをしっかりと覚えているようで、イントロが鳴り出すと歓喜の嬌声を上げ、リズム隊に手拍子で応答する。彼の楽曲は有名なテレビドラマや映画でたくさん使われていて、みなの耳にしっかりと記憶されているらしいのだ。

そんなわけで、夜中の11時になってもまだ汗ばむ陽気のカイロの夏の夜に、熱狂する1000人強のエジプト人に囲まれ、なんとなく乗り切れない居心地の悪さを抱えたまま、2時間の公演が終わった。この日の音楽をあえてたとえるなら、「エジプトのポール・モーリア」。このお年でかくしゃくとし、流麗なピアノを聞かせる才能には敬服するが、また、メロディの美しさと聞きやすさも否定はしないが、この音楽の何がエジっ子をこんなに興奮させるのかがわからない。あと2~3年この地で生活して、身も心もエジ化した暁には、この孤立感から解き放たれ、ともに歓喜の嬌声をあげることができるだろうか・・・

いずれにしても、東京のように毎夜数百箇所で公演が行われる土地とは違い、官製の施設はオペラハウスくらいしかないカイロにおいて、EL SAWY CULTURE WHEELだけが、文化を通じた共感を求めるカイロっ子を毎夜ひきつけている。SAWYの威を借りて、うちの写真展にもたくさんの文化愛好家が来てくれそうだ。

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家族でエジプトにやってきて最初に直面したのが食事のことだった。独身で4年間を過ごしたインドでは、若かったということもあるが、食には無頓着で、どんな食材をどこで調達して何を調理するかという全てを、完全にお手伝いさんにまかせていたものだった。しかし、2歳と0歳の子供をもついまは、そういうわけにはいかない。

僕自身というよりは妻が食と人間と自然のあり方に強い関心をもち、東京にいたときから有機野菜からなる宅配サービスを受けていたので、こちらに来た初日から同僚や知人たちに同様のサービスがないか聞いてみた。

そうしたところ、教えてもらったのが、ISISというブランドだった。イシスはエジプト神話の女神の名前として聞いたことのある名前だったが、このブランドの商品はMETROやALFAなどのスーパーマーケットで買えることがすぐにわかった。野菜だけでなく、牛乳やオリーブオイルなども陳列されていた。

生活をはじめて、自宅のあるザマーレクを歩いているうちに、ISISのロゴが入った看板のあるお店を発見。ISIS商品の専門店だ。野菜や果物などの食材のほかに、子供服などもおいてある。直営店というのが安心感を与えてくれるので、妻はそれから頻繁にこの店を利用するようになった。

ある日、妻が運転手さんにISISに行くようにお願いしたところ、彼が首を傾げてよくわからない素振りを見せ、実際にお店に着いてみたら、「なんだ、SEKEMのことじゃないか。」と言った。確かに看板のISISのロゴの下に、SEKEMの文字があることを、僕自身も後になって発見した。でも、ISISとSEKEMの違いについては、人に聞いたりしてもよくわからずじまいだった。

そんなある日、カイロ・アメリカン大学の書店で、その名も"SEKEM  A Sustainable Community in the Egyptian Desert"という本を発見!200ポンド(4,000円)という高値だったが、奮発して購入し、ヒマをみつけてはパラパラと読み進んだ。

著者は、SEKEMの創設者、イブラヒーム・アブレーシュ(Ibrahim Abouleish)さん。扉一面に使われている彼の穏やかで優しげな表情、たたずまいからは、とても1937年生まれとは思えない若々しさがあふれている。SEKEMとは、太陽の恵みという意味だそうだ。

この本は、イブラヒームさんの自伝として読むこともできるし、SEKEMという理念を彼と仲間たちが現実に変えていく物語としても読めるし、はたまた、西洋哲学、なかでもルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーと、イブラヒームさん独自のイスラーム教の実践哲学の融合の試みとしても読める。

第一章 "The Story of My Life"は、イブラヒームさんの幼少から青年期までの物語だ。早くから独立心の旺盛だったイブラヒームさんは、19歳のとき、両親の反対を押し切って単身、オーストリアのグラーツへ向かう。この街に住む友人を頼って、片道の旅費だけをもっての無謀ともとれる旅だったが、この街で大学の門を叩き、薬学を修め、そして、民間企業の研究所で薬物の特許をとるほどの働きを示した。オーストリア人の女性と結婚し、子をもうけ、ヨーロッパを生活の拠点としていた彼だったが、シュタイナーのアントロポゾフィーへと導いてくれたある女性をエジプトへ案内したりしているうちに、ヨーロッパで培った知識や理想をエジプトの地で実践してみたいという気持ちを抱くようになる。そして、1977年、エジプトに帰国し、北部の砂漠に70ヘクタールの土地を購入し、有機農業をはじめた。

第2章で展開される砂漠を緑に変える壮大な実験は、当初は遊牧民であるベドウィンに邪魔されたり、建築や土木の受注をした業者に騙されたり、ようやく育ちはじめた作物が砂嵐でふっとんだり、いろいろな障害に遭遇したらしく、もうそれだけでイブラヒームさんという人がいかに楽観的でかつ不屈の精神の持ち主であるかが実感される。

感動的なくだりは、ある新聞記者が当事者に取材しないで勝手な憶測でもって「SEKEMは太陽を神としてあがめている」と書いた記事が巻き起こしたイスラム聖職者たちとの衝突の模様に出てくる。イブラヒームさんは、シュタイナーの思想とイスラームの教えを融和させ、宇宙論的視座から人間と自然をホリスティックに調和させる有機農業の必要性を説き、逆に激情した聖職者たちに感動の涙をもたらし、SEKEMの力強いシンパに変えてしまうことに成功したのだという。実際、SEKEMのコミュニティでは、日々の礼拝、折々のイスラームの祝祭日の儀式を尊重し、神の意志の実践としての社会改革に取り組んでいるのだ。

第3章では、軌道にのったSEKEMの活動が、さらに幅を広げて、教育事業、職業訓練活動、医療、薬草薬学へと枝葉を伸ばしていった軌跡を記録している。19世紀エジプトの近代化の屋台骨を担った綿花産業についても、イブラヒームさんはそれが大量の殺虫剤・農薬を使用し環境を悪化させていることを問題視し、いまやSEKEMのみならずエジプトのほとんどの綿花生産を有機農業に切り替えることに成功した。北部の70ヘクタールからはじまった実験は、政府のみならず大衆的な支持を得て、全土に広がりを見せている。

2003年、SEKEMとイブラヒームさんの活動は、スイスのSchwab Foundatonから、オルターナティブ・ノーベル・プライズ(共生のノーベル賞)を受賞し、彼の第二の拠点であるオーストリア、ドイツを中心に今や国際的な支持と注目を集めている。イブラヒームさんはまた、イスラームを基盤とする協同組合型の社会改良運動の成功者として、たとえばアメリカの議員や有識者による会合に招かれ、911以降先鋭化する西と東の思想・観念的緊張の緩和にも尽力している。

SEKEMウェブサイト:http://www.sekem.com/english/default.aspx

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やってみたら、「なんだ、こんな単純な構造なのか!」と驚くのが打楽器かもしれない。
とにかく、基本のストラクチャーはえらく簡単なのだ。むしろ、そこにいかにノリを生み出していけるかどうか、あるいは装飾音の手数を増やしてハデにしていけるかどうか、というのが、その後の課題となっていくようである。

というわけで、3回目の基本パターンは、サイーディー。南エジプトのご当地での呼び名で、英語だとUpper Egypt(上のほうのエジプト)と呼ばれる。地図上では下だが、
ナイルの上流にあたるのでUpperということになる。その地のフォークロリック・ミュージックで多用されるリズムがこれだ。

D(半拍)T(1拍)D(半拍)D(1拍)T(1拍) というパターンと、
DDDDT というパターンがある。

前回まで習ったマクスームが
DTTDT および
DDTDT

だから、こうみると

「3つめがDかTか」がマクスームとサイーディを分ける要素と言える。

ドンタックドンドンッタク あるいは
ドンドンッドンドンッタク

と書くとよくわかるように、小節後半にDOMが2発続くのが、マクスームに比べてどっしりとして重い感じを与えている。

実際、スピードも三段階あるマクスームと違って、アーディ(ノーマル)しかない。ゆったりと構え、重く叩け、というのが、先生の指導内容だった。

2時間弱の練習が終わってからも、仲間で飲みながらタブラやベリーダンス談義に花が咲く。
プロのソロ演奏の録音を聞いたりしているうちに、もっともっと上手くなりたいという気持ちが自然と醸成され、半分冗談とはいえ、いつか人前でやってみたいというような話が上がる。

そんな簡単なものではないだろうが、どんな楽器でもコツがつかめてきて上達してくると、希望や熱意といったものが高まってくる。みんな仕事をもっているので練習もコンタントには行かないものの、できるだけ長く続けていければと思っている。
7月6日(日)。1週前はピアニスト田村響さんの公演準備のためいきなり練習ブッチかと危ぶまれたが、他のメンバーの都合もつかず、レッスンそのものが流れてくれた。2週間あけて久々のレッスンは、前回習ったマクスームというリズム(DTTDT)の変形で、DDTDTが基本形。
DOM(半拍)DOM(一拍)TAK(半拍)DOM(一拍)TAK(1泊)の4拍子で、頭にDOMが2階続くので、前回のマクスームよりも重たい感じが出る。

これに3つのスピードがあり、かつESという薬指の装飾音が加わり、ノリを出していく。

先生の音とくらべると、自分の音はいかにも貧弱だが、だんだんと同じパターンを回転させる感覚が身について、自分自身がリズムに乗れるようになってきている。

来週は、サイーディという、エジプト南部のフォークロリックなリズムに挑戦!
7月3日夜、ギザの三大ピラミッドそばのメナハウス・オベロイ・ホテルで開催されていたベリーダンスの祭典、アハラン・ワ・サハラン(アラビア語で「ようこそ」の意)のクロージング・フェスティバルへ出かけた。タブラ・レッスンをアレンジしてくれている日本人ベリーダンサー、かすみ先生からの情報を友人から聞きつけて、はじめて年に一回のこの大祭典の存在を知ったのだった。

前売り券を買った友人情報ではチケットは500ポンド(約10,000円)だったが、ホテルロビーにしつらえられた受付では660ポンドで売られていた。それも、120USDを5.5倍で計算しての数字だが、世の中一般の交換レートは5.35程度だから、結構ズルイ。ごねても無駄なことがわかっていたので、いさぎよく言い値を払って会場へ向かった。

会場はホテル2階の巨大バンケット・ホールで、10メートルはある天井からは落ちたら相当痛そうなシャンデリアが5つほどぶらさがっている。到着した8時半頃には、すでにほとんどの円卓が観客でいっぱいだった。どのテーブルにもイスラームの国エジプトにいることを忘れそうな、薄くて短い衣装をまとった女性たちが9割以上を占め、男性はごくわずか。その男性もいかにもお金をもっていそうで、案の定、このフェスティバルのスポンサーだったり、出演したダンサーのパトロンだったりした。何でもないただの男性客は、もしかしたら僕だけだったかもしれない。

アハラン・ワ・サハランは1年に1回、メナハウスで行われるベリーダンスの国際的祭典で、世界中からダンサーが集まってくる。フェスティバルは約1週間続き、初日と終日がトップダンサーによるショーとなるが、その間は、彼らトップダンサーによるワークショップが行われているのだそうだ。この最終日のプログラムで、各国の若手ダンサーやグループに対する授賞式が行われていたところを見ると、このほかにコンペティションも企画されていたはずである。

8時半からこの日のプログラムが始まった。最初に踊った2人の外国人ダンサーには生バンドがつかず、録音された演奏にあわせての踊りだった。自前のバンドをもたないダンサー、すなわちアマチュアということだ。

この2人が踊り終えると、司会者の力の入りようがガラリと変わり、そして舞台上では楽団があわただしくセッティングを行う。司会者の紹介を受けて登場したのが、吾らがかすみ先生!11年間、プロのダンサーとしてカイロで踊り続けるかすみ先生に対する観客の反応、そしてダンサーそのものから発せられるオーラは、前の2人とはぜんぜん違う。「異国の踊りを上手にマネする外国人」という域をはるかに超えて、エジプトのダンサーと同じ土俵でわたりあう、本物のベリーダンサーなのである。事実、この日は真夜中にエジプト人の結婚式で踊らなければならないと言っていたかすみ先生は、結婚式や観光客船やクラブなどで踊ることによって、自分だけでない楽団メンバーの生活の面倒まで見ているのである。

かすみ先生以降は、余興としての男性の群舞、前座としてのアマチュアのカラオケダンスを間に挟みながら、楽団をもつプロのダンサーの本物の踊りが続く。そのプロも、ロシア人とイタリア人で、エジプト人は最後の最後に、ナンシーというスター・ダンサーが出てくるまでお預けであった。ナンシーが出てきたのは、すでに夜中の1時半のことだった。

ナンシーはまだ20代の若いダンサーだが、他とは別の空気がこの人のまわりを流れている。本場のエジプト人にしか出せないオーラと言ってしまえばみもふたもないが、「上手く踊る」という技術のレベルを超えた、遺伝子がそうさせているとしか言いようのない魅力、色気といったものが場を支配していた。ベリーダンスのイロハがわかっていない僕のような人間でも、こうして8時過ぎから夜中の2時過ぎまで10人近いダンサーの踊りを見続けてくると、アマとプロの違い、他のプロとナンシーの違いといったものがわかってくる。本物を見ることでしか目を肥やすことができないというのは、どの芸術分野でもあてはまる真実である。

ナンシーが舞台から降りたのは2時過ぎ。このときまでに半分強の観客は帰ってしまっていたが、最後に有名男性シンガー、カリーカのライブでフェスティバルは幕を閉じた。竹馬に乗ったのっぽのピエロやキングコングが室内を踊りまくるなかで、カリーカも客の座る円卓に昇って客を煽り、観客も眠気を忘れて踊りまくった。全てが終わったとき、すでに時計は3時を回っていた。

エジプトはかつてベリーダンスの中心だったそうだが、昨今は国民全体としてのイスラームへの傾倒の影響を受けて、この華やかで開放的な踊りを不道徳とみなす人々に煙たがられ、外国人向けの観光用にこれまた外国人のダンサーを起用するといった形に縮小してしまっているという。この日舞台に上ったエジプト人がナンシー一人しかいなかったことも、その事実の反映かもしれない。とすると、国際化したベリーダンスの広がりとともに超一流のエジプト人の踊りを見ることが出来るアハラン・ワ・サハランは、660ポンド払ってでも、一回は見ておいて損はない。

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インドで4年生活し、今度はエジプトへ!この国の人々の生態、面白情報をお届けします。

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