えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。
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日本ではヒマを見つけては電気屋さん廻りをした。お目当ては、プロジェクター。
東京のウサギ小屋と比較するとそれなりに大きく、且つ真っ白にペンキが塗られた壁があるから、ホームシアターを作るにはもってこいの環境だ。
電気屋で発見したのは、本格的ホームシアター用プロジェクターというのがあって、これは大きく且つ高い。一番安いものでも20万円強はするし、飛行機で軽々と運べる代物ではない。
そこで、一般用途としてはコンピュータを使ったプレゼンテーションを想定した小型プロジェクターに狙いをつけ、約8万円のACERというメーカーの機種を買い、カイロまで運んできた。
昨夜、自宅に買い置きしていたエジプト映画"YACOBIAN BUILDING"のDVDを再生してみた。100インチくらいに拡大しても、実にきれいな画面で、結果は期待以上。
映画のほうも、なかなかの力作。Alaa Aswanyという売れっ子作家の小説を原作にしたもので、国内外で高い評価を受けたらしい。この原作については、登場人物の描き方が少しステレオタイプ化したイメージに引き寄せられすぎで、特に下層クラスに属するためにさまざまな屈辱を受けた結果、イスラム過激主義に傾倒し、最後にはテロ行為に手を染める青年の描き方には、人間らしい葛藤の跡がないことが不満だったのだが、その問題は映画にもそのまま反映されている。
でも、役者がいい。恩給を食いつぶすパシャ(太守)の末裔を演ずるのは、『テロリズムとケバブ』のコミカルな演技で日本でも知られるアーデル・イマーム。今回の映画はコメディではないので割とシリアスな演技に徹しているようではあるが、祖先様の栄光にすがりながらも自らは活躍の場を与えられず、女の尻を追いかけるしかない可哀想な男の情けなさぶりが、よく伝わってくる名演。
アーデル・イマームは、現在公開中の映画『ハサンとマルコス』にも主演しているので、この映画も見逃せない。イスラーム教徒とコプト教徒(エジプトのキリスト教)との共存をめぐる問題を描いているそうだ。
東京のウサギ小屋と比較するとそれなりに大きく、且つ真っ白にペンキが塗られた壁があるから、ホームシアターを作るにはもってこいの環境だ。
電気屋で発見したのは、本格的ホームシアター用プロジェクターというのがあって、これは大きく且つ高い。一番安いものでも20万円強はするし、飛行機で軽々と運べる代物ではない。
そこで、一般用途としてはコンピュータを使ったプレゼンテーションを想定した小型プロジェクターに狙いをつけ、約8万円のACERというメーカーの機種を買い、カイロまで運んできた。
昨夜、自宅に買い置きしていたエジプト映画"YACOBIAN BUILDING"のDVDを再生してみた。100インチくらいに拡大しても、実にきれいな画面で、結果は期待以上。
映画のほうも、なかなかの力作。Alaa Aswanyという売れっ子作家の小説を原作にしたもので、国内外で高い評価を受けたらしい。この原作については、登場人物の描き方が少しステレオタイプ化したイメージに引き寄せられすぎで、特に下層クラスに属するためにさまざまな屈辱を受けた結果、イスラム過激主義に傾倒し、最後にはテロ行為に手を染める青年の描き方には、人間らしい葛藤の跡がないことが不満だったのだが、その問題は映画にもそのまま反映されている。
でも、役者がいい。恩給を食いつぶすパシャ(太守)の末裔を演ずるのは、『テロリズムとケバブ』のコミカルな演技で日本でも知られるアーデル・イマーム。今回の映画はコメディではないので割とシリアスな演技に徹しているようではあるが、祖先様の栄光にすがりながらも自らは活躍の場を与えられず、女の尻を追いかけるしかない可哀想な男の情けなさぶりが、よく伝わってくる名演。
アーデル・イマームは、現在公開中の映画『ハサンとマルコス』にも主演しているので、この映画も見逃せない。イスラーム教徒とコプト教徒(エジプトのキリスト教)との共存をめぐる問題を描いているそうだ。
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カイロに来てはや8ヶ月。その間、アウェイでの出産と育児を経験し、つたないアラビア語でなんとか日常をやり過ごし、それなりにたくさんの文化交流の仕事にいそしんできました。
国際交流基金カイロ事務所の最重要事業の一つ、中東日本語教育セミナーを無事終え(食中毒など事件もあったものの)、9月からエジプトは酷暑のなかのラマダーンに入ることもあり、断食などとてもできそうにないひ弱な僕としては、2週間ばかり日本に帰ってこようと思います。
それでも、ラマダーン後半はしっかりとカイロにいますから、日中歯を食いしばる事務所スタッフたちをアプセットさせないようハラハラしつつ、断食明けのお食事、イフタールにたぶんときどき誘ってもらったりして、自分なりにはじめてのラマダーンを味わってみようと思っています。
では、しばらくのあいだ、さようなら。
国際交流基金カイロ事務所の最重要事業の一つ、中東日本語教育セミナーを無事終え(食中毒など事件もあったものの)、9月からエジプトは酷暑のなかのラマダーンに入ることもあり、断食などとてもできそうにないひ弱な僕としては、2週間ばかり日本に帰ってこようと思います。
それでも、ラマダーン後半はしっかりとカイロにいますから、日中歯を食いしばる事務所スタッフたちをアプセットさせないようハラハラしつつ、断食明けのお食事、イフタールにたぶんときどき誘ってもらったりして、自分なりにはじめてのラマダーンを味わってみようと思っています。
では、しばらくのあいだ、さようなら。
今年の中東日本語教育セミナーが、やっと終わった。
年に一度、中東全域の日本語教育関係者をカイロに招いて、二日間、日本語教育の理論や実践的知識の伝授、そして教師間のネットワーク作りの支援を行う機会で、エジプトからの参加者を含めて50人ばかりが熱心に参加してくれている。
特に問題なく終わったと言いたいところだが、会場となったホテルでの食あたり事件には参った。
顔合わせの夕食会、ぼくたちだけのために作られたビュッフェの食事を食べ、みんな旧交を温め翌日からのセミナーに意欲を燃やしていたのだが、翌朝になって半数以上がおなかを壊してしまった。ちょっとトイレが近いという軽い症状の人から、動けなくて部屋で寝ている人まで、程度の差はあれ、多くの人がセミナーに良好な体調で望めなくなったことは確かだ。そして、原因がホテルが出した食事しかないことは、状況証拠として確実なのである。
ところが、ホテルの責任者を呼んで抗議しても、「同じ食事をアメリカ大使館に出しているから、うちの食事が問題ということはない。」などとシラを切って、絶対に頭を下げない。これが日本だったら、保健所を呼んで、原因調査を徹底的にやってもらい、そんなゴタゴタを聞きつけたメディアの取材が入り、経営者がテレビカメラの前でペコリと頭を下げ・・・といった一連の流れが続くわけで、最近はこれのオンパレードなわけだが、ここでは、保健所が出動するなどということはない。もしかしたら死者が出ても、ホテルはシラを切り続け、公的な介入は起こらないのかもしれない。
翌日、カイロ在住の日本語の先生の自家用車のボンネットから火がでた。幸い、エジプトの車には消火器の搭載が義務付けられており、周囲の車から消火器をもった人たちがやってきて火を消してくれたそうだが、このとき、まわりにいっぱいいた警察官の誰一人、手をかしてくれることはなかったという。交通事故の被害者になっても、警察は微動だにせず、加害者もとうてい自分には背負えない負担に怯えて逃げ出すわで、車の修理や医療費は結局自分が負担することになる。
日本では、よく整備されたシステムと高い社会モラルの結合が、食や交通、医療などの基本社会サービスを世界最高水準のものにしていたが、国際競争の激化と政府機能の縮小などの影響で、陰りが見えはじめている。耐震偽装、食品偽装など、市民を驚愕させる事件が相次いでいるが、この流れをそのままにしておくと、先にあげたような恐ろしい状況になっていかないとも限らない。食を中心とする消費者保護、原因解明のための公権力の適正な介入、民事上の紛争の公正な調停システムは、ひとびとが安心して暮らすためになくてはならないものだということがよくわかる。日常は気づかないことだが、事故が起きたときはじめて、そういう社会の基本的セーフティネットにありがたみを痛感することになる。
「自分の身は自分で守れ。」カイロに来てまもない頃から、いろんな人から言われた。しかし、目に見え予測できる危険に対しては準備のしようもあるが、ホテルの食事が当たらないかどうかなんて、あからさまな臭気でも出てこない限り、わかりようがない。
なんともやるせない、数日間だった。
年に一度、中東全域の日本語教育関係者をカイロに招いて、二日間、日本語教育の理論や実践的知識の伝授、そして教師間のネットワーク作りの支援を行う機会で、エジプトからの参加者を含めて50人ばかりが熱心に参加してくれている。
特に問題なく終わったと言いたいところだが、会場となったホテルでの食あたり事件には参った。
顔合わせの夕食会、ぼくたちだけのために作られたビュッフェの食事を食べ、みんな旧交を温め翌日からのセミナーに意欲を燃やしていたのだが、翌朝になって半数以上がおなかを壊してしまった。ちょっとトイレが近いという軽い症状の人から、動けなくて部屋で寝ている人まで、程度の差はあれ、多くの人がセミナーに良好な体調で望めなくなったことは確かだ。そして、原因がホテルが出した食事しかないことは、状況証拠として確実なのである。
ところが、ホテルの責任者を呼んで抗議しても、「同じ食事をアメリカ大使館に出しているから、うちの食事が問題ということはない。」などとシラを切って、絶対に頭を下げない。これが日本だったら、保健所を呼んで、原因調査を徹底的にやってもらい、そんなゴタゴタを聞きつけたメディアの取材が入り、経営者がテレビカメラの前でペコリと頭を下げ・・・といった一連の流れが続くわけで、最近はこれのオンパレードなわけだが、ここでは、保健所が出動するなどということはない。もしかしたら死者が出ても、ホテルはシラを切り続け、公的な介入は起こらないのかもしれない。
翌日、カイロ在住の日本語の先生の自家用車のボンネットから火がでた。幸い、エジプトの車には消火器の搭載が義務付けられており、周囲の車から消火器をもった人たちがやってきて火を消してくれたそうだが、このとき、まわりにいっぱいいた警察官の誰一人、手をかしてくれることはなかったという。交通事故の被害者になっても、警察は微動だにせず、加害者もとうてい自分には背負えない負担に怯えて逃げ出すわで、車の修理や医療費は結局自分が負担することになる。
日本では、よく整備されたシステムと高い社会モラルの結合が、食や交通、医療などの基本社会サービスを世界最高水準のものにしていたが、国際競争の激化と政府機能の縮小などの影響で、陰りが見えはじめている。耐震偽装、食品偽装など、市民を驚愕させる事件が相次いでいるが、この流れをそのままにしておくと、先にあげたような恐ろしい状況になっていかないとも限らない。食を中心とする消費者保護、原因解明のための公権力の適正な介入、民事上の紛争の公正な調停システムは、ひとびとが安心して暮らすためになくてはならないものだということがよくわかる。日常は気づかないことだが、事故が起きたときはじめて、そういう社会の基本的セーフティネットにありがたみを痛感することになる。
「自分の身は自分で守れ。」カイロに来てまもない頃から、いろんな人から言われた。しかし、目に見え予測できる危険に対しては準備のしようもあるが、ホテルの食事が当たらないかどうかなんて、あからさまな臭気でも出てこない限り、わかりようがない。
なんともやるせない、数日間だった。
今もキリストの使った言葉を話す街マアルーラで、聖セルジウス修道院から聖テクラ修道院へと貫ける半洞窟(左右を峻厳な岩壁に挟まれた通路)の存在を現地で雇った運転手さんに教えられ、てくてくと歩き始めたところで、聖テクラの側から歩いてきた日本人らしき男性と遭遇した。
海外の観光地で日本人同士が出会うと、なんとなく気まずくて、ついついお互いに顔をそむけてしまうことがあるが、ここでいわゆる観光地とはちょっと違い、観光バスが乗り入れるような土地ではなかったせいか、お互いぎこちなくも日本語で挨拶を交わす。
すると、相手の日本人は、
「いや、私、ここに一ヶ月くらい住んでるんですよ。」
とおっしゃるからびっくり。
聞くと、いまやこのマアルーラを含めて3箇所しかないアラム語を話すコミュニティに居を定め、この消えかかっている言語の調査・研究をされているのだという。
学術的な関心からではなかったが、自分もインドでアラム語の賛美歌に出会って以来、この言葉に興味を持ち続けていたので、たまたま自分がこの街を訪ねたときにこのような奇特な研究者とお会いできたことが、単なる偶然ではないような気がした。
この旅では、もう一度、ささやかだが、嬉しい驚きの出会いがあった。
中世の十字軍が築いた山上の要塞、クラック・ド・シュバリエの城門をくぐったところで、アラブ人女性数名と日本人女性1名のグループとすれ違った。そのうちの何人かがうちの二人の小さい娘を見て嬌声を上げるので、それに応えてという訳ではないが、
「こんにちは。」
と応答すると、先方もこちらが日本人だと気づいて、立ち止まって話しかけてきた。
彼らは、ダマスカス大学で日本語を教える協力隊員と、その教え子だちだった。教え子の一人が旅行業界で働いているとかで、その便宜で国内旅行を楽しんでいるのだという。
これも、他人からすれば、「だからどうしたの?」と言いたくなるような些細なエピソードだが、こちとら勝手に海外の日本語教育にたずさわる身として、単なる偶然とは片付けたくない気持ちになってくるものだ。
自分は運命論や決定論を心底信じるわけではないが、旅をしているときに自分の属性や関心に寄り添うような出会いには、どこかしらときめいてしまう。深追いするでもないが、その出会いを自分の心のなかで大切にしたいという気持ちが自然に沸いてくる。
マアルーラで出会った言語学者に、恐縮しながらお名前を伺った。「ふくはら」というお名前を教えてくださった。カイロに戻って、インターネットで「福原+アラム語」で検索をかけると、
海外の観光地で日本人同士が出会うと、なんとなく気まずくて、ついついお互いに顔をそむけてしまうことがあるが、ここでいわゆる観光地とはちょっと違い、観光バスが乗り入れるような土地ではなかったせいか、お互いぎこちなくも日本語で挨拶を交わす。
すると、相手の日本人は、
「いや、私、ここに一ヶ月くらい住んでるんですよ。」
とおっしゃるからびっくり。
聞くと、いまやこのマアルーラを含めて3箇所しかないアラム語を話すコミュニティに居を定め、この消えかかっている言語の調査・研究をされているのだという。
学術的な関心からではなかったが、自分もインドでアラム語の賛美歌に出会って以来、この言葉に興味を持ち続けていたので、たまたま自分がこの街を訪ねたときにこのような奇特な研究者とお会いできたことが、単なる偶然ではないような気がした。
この旅では、もう一度、ささやかだが、嬉しい驚きの出会いがあった。
中世の十字軍が築いた山上の要塞、クラック・ド・シュバリエの城門をくぐったところで、アラブ人女性数名と日本人女性1名のグループとすれ違った。そのうちの何人かがうちの二人の小さい娘を見て嬌声を上げるので、それに応えてという訳ではないが、
「こんにちは。」
と応答すると、先方もこちらが日本人だと気づいて、立ち止まって話しかけてきた。
彼らは、ダマスカス大学で日本語を教える協力隊員と、その教え子だちだった。教え子の一人が旅行業界で働いているとかで、その便宜で国内旅行を楽しんでいるのだという。
これも、他人からすれば、「だからどうしたの?」と言いたくなるような些細なエピソードだが、こちとら勝手に海外の日本語教育にたずさわる身として、単なる偶然とは片付けたくない気持ちになってくるものだ。
自分は運命論や決定論を心底信じるわけではないが、旅をしているときに自分の属性や関心に寄り添うような出会いには、どこかしらときめいてしまう。深追いするでもないが、その出会いを自分の心のなかで大切にしたいという気持ちが自然に沸いてくる。
マアルーラで出会った言語学者に、恐縮しながらお名前を伺った。「ふくはら」というお名前を教えてくださった。カイロに戻って、インターネットで「福原+アラム語」で検索をかけると、
福原信義(ふくはらのぶよし、1943年2月~ )は日本のフィールド言語学者。専門は中東の言語であり、とりわけアラビア語・コプト語・アラム語を研究テーマとしている。現在は大阪外国語大学のアラビア語教官でもある。(ウィキペディア)
という情報が得られた。エジプトで数十人しか話者がいないというコプト語の研究もされているそうで、エジプトにもご縁のある方だとわかった。
きっと、いずれまた、出会うことがあると信じている。
きっと、いずれまた、出会うことがあると信じている。
現代日本写真展の開催、日本からの専門家受け入れによる講演会の実施など、それなりに忙しい日々をくぐりぬけ、待ちに待った夏休みがやってきた。カイロに来て初めての夏休みはシリアで過ごした。
5泊6日という強行軍だったが、ダマスカスに住む友人や彼女が紹介してくれた現地旅行代理店の助言を得て、
アレッポ(2泊)→アパメア→ハマ→クラック・デ・シュバリエ→
パルミラ(1泊)→マアルーラ→ダマスカス(2泊)
という8箇所巡りを実現することができた。
2歳と0歳の娘をしょいながら、城や山を登り、曲がりくねった中世の路地をさ迷い歩くのは、根をあげそうにシンドイ瞬間もあったにせよ、振り返れば忘れがたき印象を残した。文明の十字路として、5000年以上前から文物が行き交う地であったシリアは、古代の偶像崇拝期、ユダヤ教期、キリスト教期、イスラム教期の歴史的遺物が重層的に堆積していて、街をそぞろ歩くだけでその歴史的変遷を体感することができる。
アレッポのシンボル、アレッポ城は、紀元前2000年頃のネオ・ヒッタイト族までさかのぼることができるという。アパメアの神殿跡は、紀元前3世紀、アレキサンダー大王が築いた帝国を受け継ぐセレウコス朝シリアのもの、シリア一の観光地パルミラはローマ帝国とペルシャ帝国に挟まれながらも独立した帝国を繁栄させた往時の栄光を偲ばせる。ダマスカスのウマイヤド・モスクは、ウマイヤ朝時代715年に建てられた最古の部類に属するモスクで、それ以前に聖ヨハネ教会として使われていたため、二つの宗教様式が融合した建築となっている。
もっとも感動的だったのが、マアルーラ。ダマスカスから北西に約50キロ。標高1650mの隔絶された山間いに、イエス・キリストが話した言語とされるアラム語を今も使うコミュニティが生きている。ギリシャ・カトリックの聖セルジウス修道院と、ギリシャ・オーソドックスの聖テクラ修道院の二つを訪ねた。聖セルジウス修道院の売店では、アラム語の賛美歌をおさめたCDを発見。この旅の目的のひとつが達成された。なぜかというと、インド駐在中に友情をあたためたロック・バンドIndian Oceanの代表曲"KANDISA"が、このアラム語で歌われているからだ。起源二世紀にシリアからインド南部ケーララに渡り、今もインドの教会でアラム語で歌い継がれている賛美歌を、バンドのベーシスト、ラフルが編曲し、現代的アレンジでよみがえせた。いまは遠くつながりの薄いインドとアラブ世界が、古代にはさまざまな人やモノの交流でつながっていた証左を、ぼくたちは耳で確かめ、心を共鳴させることができる。今回のシリア旅行では、このKANDISAの原曲を探したかった訳だが、ずばりとはいかないまでも、現在のシリアに残るアラム語の讃美歌を音源として入手することができた。2枚購入し、1枚をインドに送る予定。
もうひとつのシリアの楽しみは食。よくレバシリと称して、アラブ料理の最高峰をレバノンとシリアに求める説があるが、頭よりも胃袋で実感。食材のおいしさ、調理法、盛り付け、すべてにわたって、芸術的。アレッポで食べた、ナスと肉のバーベキュー、そして旅行中5杯も飲んだレモンジュースとミントのミックス(POLO)が絶品。そして、最後にダマスカスの有名なお菓子やさん、SEMIRAMISで買ってかえったお菓子たちのおいしいこと。もういちど、このお菓子のためだけに訪ねたいくらいである。
国際政治の世界では、いつもアメリカに目をつけられ、傍からみると危険な国のようにおもわれがちだが、エジプト人より控えめで、そしてエジプト人同様に日本人好き、そしてホスピタリティに満ち溢れた人々にもてなされ、忘れられない旅ができることうけあいである。自身をもって、シリア旅行をオススメしたい。
5泊6日という強行軍だったが、ダマスカスに住む友人や彼女が紹介してくれた現地旅行代理店の助言を得て、
アレッポ(2泊)→アパメア→ハマ→クラック・デ・シュバリエ→
パルミラ(1泊)→マアルーラ→ダマスカス(2泊)
という8箇所巡りを実現することができた。
2歳と0歳の娘をしょいながら、城や山を登り、曲がりくねった中世の路地をさ迷い歩くのは、根をあげそうにシンドイ瞬間もあったにせよ、振り返れば忘れがたき印象を残した。文明の十字路として、5000年以上前から文物が行き交う地であったシリアは、古代の偶像崇拝期、ユダヤ教期、キリスト教期、イスラム教期の歴史的遺物が重層的に堆積していて、街をそぞろ歩くだけでその歴史的変遷を体感することができる。
アレッポのシンボル、アレッポ城は、紀元前2000年頃のネオ・ヒッタイト族までさかのぼることができるという。アパメアの神殿跡は、紀元前3世紀、アレキサンダー大王が築いた帝国を受け継ぐセレウコス朝シリアのもの、シリア一の観光地パルミラはローマ帝国とペルシャ帝国に挟まれながらも独立した帝国を繁栄させた往時の栄光を偲ばせる。ダマスカスのウマイヤド・モスクは、ウマイヤ朝時代715年に建てられた最古の部類に属するモスクで、それ以前に聖ヨハネ教会として使われていたため、二つの宗教様式が融合した建築となっている。
もっとも感動的だったのが、マアルーラ。ダマスカスから北西に約50キロ。標高1650mの隔絶された山間いに、イエス・キリストが話した言語とされるアラム語を今も使うコミュニティが生きている。ギリシャ・カトリックの聖セルジウス修道院と、ギリシャ・オーソドックスの聖テクラ修道院の二つを訪ねた。聖セルジウス修道院の売店では、アラム語の賛美歌をおさめたCDを発見。この旅の目的のひとつが達成された。なぜかというと、インド駐在中に友情をあたためたロック・バンドIndian Oceanの代表曲"KANDISA"が、このアラム語で歌われているからだ。起源二世紀にシリアからインド南部ケーララに渡り、今もインドの教会でアラム語で歌い継がれている賛美歌を、バンドのベーシスト、ラフルが編曲し、現代的アレンジでよみがえせた。いまは遠くつながりの薄いインドとアラブ世界が、古代にはさまざまな人やモノの交流でつながっていた証左を、ぼくたちは耳で確かめ、心を共鳴させることができる。今回のシリア旅行では、このKANDISAの原曲を探したかった訳だが、ずばりとはいかないまでも、現在のシリアに残るアラム語の讃美歌を音源として入手することができた。2枚購入し、1枚をインドに送る予定。
もうひとつのシリアの楽しみは食。よくレバシリと称して、アラブ料理の最高峰をレバノンとシリアに求める説があるが、頭よりも胃袋で実感。食材のおいしさ、調理法、盛り付け、すべてにわたって、芸術的。アレッポで食べた、ナスと肉のバーベキュー、そして旅行中5杯も飲んだレモンジュースとミントのミックス(POLO)が絶品。そして、最後にダマスカスの有名なお菓子やさん、SEMIRAMISで買ってかえったお菓子たちのおいしいこと。もういちど、このお菓子のためだけに訪ねたいくらいである。
国際政治の世界では、いつもアメリカに目をつけられ、傍からみると危険な国のようにおもわれがちだが、エジプト人より控えめで、そしてエジプト人同様に日本人好き、そしてホスピタリティに満ち溢れた人々にもてなされ、忘れられない旅ができることうけあいである。自身をもって、シリア旅行をオススメしたい。
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