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えじぷとの文化、芸術、エンターテインメント堪能記です。 twitter: @sukkarcheenee facebook: http://www.facebook.com/koji.sato2
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村上春樹さんがエルサレム賞というイスラエル政府筋が運営する文学賞を受賞したことをめぐり、大阪のパレスチナ支援団体が村上さんに対して受賞を拒否するよう公開書簡を出したという報道に接し、強い違和感をもった。

① なぜ、この団体は、授賞する側ではなく受賞する側だけに抗議しているのか。
② この団体は、受賞者が村上春樹ではない、たとえば外国の作家・知識人であったとしても、果たして同じように書簡を出しただろうか。

イスラエルの国家としての暴力を問い、その当の国家が「社会における個人の自由」を讃える賞を出すなどという欺瞞を糾弾するという主張は、正当だろう。手紙の効力の有無を問う前に、だからこそ、彼らは当のイスラエルの主催者に対して、このような欺瞞は許さないという手紙を出すべきではなかったか。

また、受賞者も国民の信託を得た公人だったらば、まさに国家間の外交においてこの欺瞞を隠蔽することは許されないと糾弾することも許されただろう。しかし、私人である村上氏がこれを受けるか受けないかは、まぎれもない、彼の自由に所属する問題であった。それを、公開書簡という形式でもって公に問う必要はどこにあっただろうか。彼らが自分たちの主張が正当で村上氏を動かすことができると信じていれば、なにもこの問題を公に顕わにしなくともよく、800の署名を集めようと躍起にならずともよく、ただまっすぐ、本人に手紙を郵送すればよかったのだ。相手が同じ日本人だから、同族とのしての情に訴えようとでも思ったのだろうか。だとしたら、そこには、個人の選択の自由とそれに伴う責任ということに対する、認識の甘さがあるのではないか。ガザで1000人を超す人命が奪われた直後にこの賞を受け、授賞式に赴くことを全き自由でもって選択し、その選択がもたらすであろう結果に対する責任を負うのは村上氏自身である。彼らが公開書簡であげつらっているような批判がありうべきことなど、当人は百も承知なのである。そのうえで、受賞を決めた村上氏を、なぜに公を語って引き止める権利があると、彼らは考えたのか?自分たちこそが正義を独占的に語っているのだという錯誤があったのではないか。

今日、新聞報道で、村上氏の受賞スピーチの概要を知った。

「作家は自分の目で見たことしか信じない。私は非関与やだんまりを決め込むより、ここに来て、見て、語ることを選んだ」

「壁は高く勝利が絶望的に見えることもあるが、我々はシステムに利用されてはならない。我々がシステムの主人なのだ」

賞を与える側にとっては心地よくないスピーチだっただろうし、見方によっては賞を与える側に対して失礼ではないかとの意見もあるやもしれない。しかし、まぎれもなく、この賞を受け、そして現地に乗り込んで賞を受けるという選択を、村上氏は責任もって行ったのだ。賞を辞退するというのも一つの見識だろうが、こうして出かけていって、手を差し伸べる相手を言葉で切りつける勇気のことを考えると、村上春樹という人の人間としての強さを感じずにはいられない。それは、「自分だったらどうしたか」、と胸に手をあててみたら、よくわかることだ。


ちなみに、過去の受賞者のアーサー・ミラーも、スーザン・ソンタグも、スピーチでイスラエルを批判したと言うが、それは当人は現場にいないビデオメッセージだったという。
村上春樹は、わざわざ出かけていって、その場で、相手を批判した、おそらくははじめての受賞者となったのである。

一人で責任を引き受ける、ということの意味を考えさせられた。
群れるな。
もたれあうな。
自分自身の主人たれ。
そういう声が聞こえてきた気がした。


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遅読の極みで、先月購入して著者にサインしてもらった"In An Antique Land"が、ようやく最終局面。読みやすい文章で基本的にスラスラと進むが、さすがインド人、使う単語がなかなかに珍しかったりするので、辞書引き引きになるページもある。

いまや世界中に読者をもつ人気作家、アミターブ・ゴーシュの現在を形作るのに、こんなにもエジプトでの生活と研究体験が大きな影響を与えていることに、読み進めるにつれ驚きは増すばかり。農村の方言しかできないと本人は謙遜するが、アラビア語も相当にできる模様である。作家として文筆の世界に入る前、今から25年以上も前のこと、世界を知る体験が必要と考えたゴーシュは、奨学金をもらってエジプト農村の社会人類学研究に取り組む。このトラベローグでは、研究そのものよりは農村生活のエピソードが中心を占める。興味深いのは、村人(ほとんどがムスリム)がインド人のゴーシュに対して、ヒンドゥー教の雌牛信仰について、あるいは死者を荼毘にふす慣習について、興味と畏れを抱きながら質問攻めにするのだ。

世界には色々な宗教や民族があるということを事実として受け入れる傾向にある都会人とは違って、村の人たちにとっては、あまりにも自分達とは異なるインド人の信仰に対する違和感が大きく、彼らの多くが、多分に親切心から、イスラムへの改宗を勧めたりする。そうしたことの繰り返しに気が滅入り、戸惑うゴーシュに対して、仲の良い友人らは、「ほんの冗談なんだから、適当に聞き流せばよい」と助言するのだが、ゴーシュはここで自分の少年時代の体験を紹介しながら、インド亜大陸の状況とエジプトのそれとを比較してみせる。

すなわち、ゴーシュの父親はインド外交官で、60年代に東パキスタン(現バングラデシュ)のインド大使館に勤務していたという。当地では独立後も、残ったヒンドゥー教徒と大多数を占めるムスリムとの間で、ちょっとしたイザコザがもとで、深刻な宗派間対立が再燃しており、あるとき、ゴーシュの住む公邸に緊張を恐れてヒンドゥー教徒が逃げ込み、外をムスリムの群集が取り囲むという事件が起こったのだそうだ。一見平和に発展を続けるかに見える南アジア、インド亜大陸には、未だ静まらずくすぶり続ける暴力の気配が漂う。それと比べたときに、異教徒同士が世代を超えて対立・暴力の記憶を継承するといった事態を経験しないエジプトの人々は、なんと平和なことだろう!村の人々から興味本位の質問攻めにあうたびに、ゴーシュはこのようなことに思いをいたしていたという。

エジプトにも、マジョリティのムスリムと1割から2割とされるコプト教徒(キリスト教徒)との間に、ときに緊張がはしることがあると聞くが、ゴーシュの言うように、南アジアの混沌とした状況と比べれば、確かに平和というべきか。

それにしても、ヒンドゥー教徒と同様、死者を荼毘にふす我々仏教徒も、当地の農村で人々と言葉を交わすことがあるとすれば、まずはこの宗教がらみの面倒くさい問答とつきあわねばならないのだろう。実際、ゴーシュがこれらの問答と直面するくだりに出くわすたびに、読んでいる自分の心もドキドキと波打ってくるのを感じる。

もう一つ、興味深いくだりは、ゴーシュが村のイマームとの間で、エジプトとインドの国としての「発展」をめぐって口論になる場面。またもや雌牛信仰のことを言及され、翻ってエジプトは世界でアメリカに次いで優れた兵器を作るのだとうそぶかれたゴーシュは、このときは堪忍袋の緒が切れて、そうではなくインドこそエジプトなんかよりも優れた兵器開発国である、と言い返す。言ってしまった後で後悔するゴーシュは、ここにきて、農村のエピソードと同時平行に語ってきたもう一つのテーマとの接合を試みる。それは、ゴーシュが後年関心をもって研究することになる、中世のアラブとインドの交易史のことで、エジプトのシナゴーグから発見された当事者間の書簡(ゲニザ文書)を通してよみがえる、異教徒間ののびのびと展開される交渉のありように、ゴーシュは現在では失われつつある開かれたコミュニケーションを発見する。人間どうしが自分の所属する国の軍事科学技術でもって互いを競いあうのが近代の話法とすれば、交換する文物の価値を通してフラットな関係を切り結ぶ中世の商人たちは、どんなにか自由であったことだろう。当時においては、エジプト在住ユダヤ商人がインド南部マラバールに拠点をおいて、同地で知り合った下級カーストの漁民を「奴隷」としてアデン(現イエメン)に駐在させ、エジプトとインド間の取り引きを活発に行うというような、国籍、民族、宗教などのアイデンティティが多様に入り組んだ人間模様が、ごくごく一般的であったことが伺い知れる。そして、近代とは、その豊かな境界線を融解させながら展開されるコミュニケーションを、国民国家の論理でもって整理していくプロセスであり、近代化のプロセスを通じて、承知のとおり多くの血が流れた(今も流れ続けている)。

こうして、中世の交易・交流史に飽くなき関心をもって自ら調査・研究するという立ち位置から、ゴーシュの文学世界が立ち現れる。日本でも多くの読者を獲得した大河ドラマ『ガラスの宮殿』もまた、近代が必然的にもたらす暴力に翻弄される人々を一人一人丹念に描写することで、歴史を権力装置から人間のもとへ返還しようとする試みとして読むことができるように思う。"In An Antique Land"を読んで初めて、どうしてゴーシュの手からこのような深い文学作品が生み出されるのかが、少しだけ理解できたように感じている。

僕が逃してしまったカイロ・アメリカン大学での講演が、MP3で聴けることを発見!ジミー・カーターなど錚々たる面々がやってきているようで、これからは注意して前宣伝を見なければ!

http://www1.aucegypt.edu/resources/smc/webcasts/
4月2日の英字紙Egyptian Gazetteの文化欄に、興味深い2つの記事を発見。

一つは、'Palestinian dance festival defies Israeli Closures(パレスチナのダンス・フェス、イスラエルの占領政策に挑む)」という記事で、ラマラで開催される国際ダンス・フェスティバルを紹介している。Ramalla Contemporary Dance Festivalでググってみると、専用サイトを発見。4月24日から連日、日本でも2年続けて演劇作品が上演されたAl Kasaba Theatreの施設などを使って、パレスチナと世界各国のダンス・カンパニーの公演が行われる。

http://www.sirreyeh.org/festival/program.php

残念ながら、日本のカンパニーの参加は予定されていないらしい。基金が自らカンパニーを派遣してもいいし、有志のカンパニーが基金の助成金を得るなどして参加してくれてもいい。こうしたアートによる国際的連帯に、日本からの参加があるということが大事なのではないか、と思うのだが。

もう一つの記事は、'Indian Author Recalls days in Egypt'というもので、世界的に著名で『ガラスの宮殿』など邦訳も多いインド系作家、アミターブ・ゴーシュの顔写真とともに記事が紹介されている。この記事を読んだときには手遅れだったが、アラブ作家同盟の年次総会においてゴーシュが記念講演を行った。4月4日には、ザマレクの書店DIWANでサイン会があるというので、こちらには出かけることができた。

CIMG1931.JPG司会の男性が流暢な英語でゴーシュともう1名招待されていたメキシコ人の作家を紹介、続いて二人が簡単に今回の訪埃の感想や自分の作品についての簡単なアウトラインを説明した。もう少し作品についての話しが聞きたかったのだが、趣旨は親睦を目的とするサイン会なので、すぐにお開きとなってしまった。


CIMG1934.JPGこの日初めて知ったのだが、アミターブ・ゴーシュはかつてオクスフォードで社会人類学を専攻していた際、エジプトをフィールドに選び、80年から約2年間、アレキサンドリア近くの農村に滞在していたという。この日の挨拶でも、田舎暮らしに終始したエジプト滞在を思い出しながら、カイロのなかでもノーブルな雰囲気のザマーレクにはいつも憧憬の念を抱いていたと、冗談交じりに語っていた。その滞在経験をベースに10年後の92年にゴーシュが執筆・出版した旅行記が"In an Antique Land(古代の国にて)"。4年の滞在で身も心も惚れ込んでしまったインドとこの国を代表する作家ゴーシュが、今自分が暮らしその文化や社会に親しもうとしているエジプトを舞台に書いた作品と出会えることが、単純に嬉しくて仕方がなかった。これからしばらくの間、子供が寝静まった後は、もっぱらこの本のページをひもとくことに費やされるだろう。読了したら、このブログでいずれ概略を紹介したいと思う。

なお、この日司会をされていた男性について。当然のことながらアラブ作家同盟の有力者で今回の企画の主催者であろうと想像して、おそるおそる声をかける。Mohamed Salmawyというアハラーム紙フランス語版の主幹で、後日うちのスタッフに聞いたら、ものすごく著名な方だという。その日の会話では、かなり昔に国際交流基金から日本に招待されているともおっしゃっており、日本についても結構知っている。「アラブ作家同盟」として、今回のような企画を日本をテーマにやるとしたら、誰を呼ぶか。ずばり聞いてみた。答えは、

村上春樹。

同氏は村上作品英訳を全部読んで、大のお気に入りだという。
さてさて、いきなりのビッグネームだ。アミターブ・ゴーシュを呼んだんだから、村上さんが出てもおかしくないといえば、そうかもしれないが。

村上さん、来てくれるかなぁ。
って、その前に、アラビア語訳の1冊でもこの世に登場せしめなければなるまい。

>>>>>>

日は変わって、4月5日、土曜日。
この日は日中に、産後の我が家に助っ人としてきてくれた義理の妹を、長女と一緒にピラミッド・博物館へと案内する。晴天に30度程度の気温という、ピラミッド日和な一日で、スフィンクスの見えるKFC(正確には1階のKFCからは見えず、2階のピザ・ハットが目的地なのだが)にも行ったし、楽しい家族サービスができた。

そして、夜の部。午後8時から、オペラハウス小ホールにて、知人が「エジプトの坂本龍一」と称して熱愛するミュージシャン、Fathy Salama(ファトヒー・サラマ)の公演を見に行った。かつてはポップスのコンポーザーとして、アムル・ディアブなど売れっ子シンガーに楽曲を提供してきたファトヒーは、近年自身の音楽世界を深め、上エジプトはヌビア民族の音楽をベースにしたフュージョンへと傾いていったという。そんな彼を一躍有名にしたのが、2004年にセネガルの巨匠ユッスー・ンドゥールが発表しグラミー賞を受賞したアルバム”EGYPT”だった。このアルバムに楽曲を提供し、アレンジなどを手がけることで、世間一般の知名度はそれほどでもないが、いまや知る人ぞ知る「通好み」のアーティストとなった。

http://fathysalama.free.fr/

インドでは、やはり各地の民族音楽を上手にとりこんで現代音楽への昇華させる最高のバンド、Indian Ocean(http://indianoceanmusic.com/)と出会い、様々な縁に導かれて彼らの来日公演が実現したのだが、ここエジプトでも同様のインスピレーションを与えてくれるミュージシャンと出会えるかも、と期待して、この日の公演を迎えた。

といっても、前日、サイン会の折、書店DIWANで彼のグループ、SHARKIATの新譜を買って予習はしていたのだが。

編成は、ファトヒー(ピアノ・シンセサイザー)のほか、パーカッション、タブラ、アコーディオン、エレクトリック・ベースが基本。この日は、スペインからフラメンコ・ギターのFernando Perez、フランスからベーシストのAndre Segone、そしてナーイ(縦笛)とウードを両方こなす盲目のミュージシャン、M. Antarの3名もゲスト参加して、アラブとスペインとフランスが混ざり合うカラフルなライブとなった。

楽曲は、ベースとなるリズムにヌビア音楽のエスニックな要素があるせいなのかどうか、どこまでいっても完全にメロディアスな展開にはならないところが個人的には欲求不満だったが、サビメロの展開には叙情的で鳥肌が立つような曲もいつくかあった。アコーディオンの響きがどことなくピアソラ的叙情をかもし出しているのも良い。

でも、演奏的には、イマイチまとまりに欠ける。ゲスト・ミュージシャンが多いせいか、短時間で合わせた曲が目立ち、バンドの一体感が足りない。アコーディオンとナーイが高速でユニソンを奏でるメロディーが、バタバタっとズレてしまうパターンが何度かあって、せっかく盛り上がりそうな興を冷ましてしまったのが残念だった。結局、一番印象に残ったのは、Fernando氏の艶やかなフラメンコと、タブラのソロの超絶技巧ぶりであった。

CIMG1933.JPG11日には、同じオペラハウスの野外シアターにて、ELECTRONICAと題した公演が予定されている。初回のほうはACOUSTICAで、控えめにやったというわけ。最後のMCでファトヒーが、「今度はもっともっとノイジーにやるから楽しみにしていてください!」と言っていた。ノイズだけでなく、バンドとしてもタイトにまとめて、もっと格好いいパフォーマンスを見せてほしいところだ。




公演終了後に彼のところに駆け寄って挨拶を交わした。アルバム・ジャケには日本でも公演したことががあるとあったので、そのことを聞いたら、’long, long time ago'で91年のことだったという。すかさず'You have to refresh(日本体験を更新しなくては!'と社交辞令でつないだが、Indian Oceanとであって自分を貫いた衝撃は、残念ながら、まだやってきていない。単純に自分が年をとったということでなければよいのだが。

忙しさにかまけて、まだ本屋にじっくり居座る時間がもてない。

CIMG1757.JPG近所に洒落た内装のDiwanという本屋があって、週末家族で散歩した折に何度か立ち寄ったが、本の数やジャンルは限定されている。アラビア語の書物は到底読めるレベルではないので、専ら英語の書棚を見てまわるのだが、日本の書店のように平積みされた旬の本はほとんどないなか、唯一数十冊が平積みされているのを発見した。Alaa Al Aswanyという作家がアラビア語で書いた、Yacoubian Buildingの英訳がそれだった。世界の20言語に翻訳され、現代アラビア語小説で最も成功した小説という宣伝文句がついていて、背表紙の書評抜粋にはこのように書かれていた。

 「魅惑的かつ論争的・・・現代のエジプト社会と文化を驚嘆すべき筆致で描き出している。」(New York Review of Books

 

「アラー・アル・アスワーニーは勇敢で率直な社会批評家だ。・・・Yacoubian Buildingはカイロの縮図­­­­­­-闘技場、監獄、迷宮、人間性がかろうじて救済される難破船-である。」(マリア・コリア、Times Literary Supplement


カイロの喧騒に呑まれて日々が過ぎていくなかで、もしここで評されているような小説に出会えたとしたら、読後にはカイロという大都会を理解するとっかかりをたくさんもらえるのではないかと期待して、ページを読み進めた。

 
小説は湾岸戦争期(90年代初頭)のカイロ繁華街のフラットが主舞台で、ここに住む個性的な住人たちが重層的に織り成す人間ドラマとなっている。中心階には富裕な貴族やブルジョアが生活している一方で、屋上は貧困層がバラックを建てて占有するというようなカオティックな設定のなか、様々な個性的なキャラクターが登場する。主人公の一人、落ちぶれた旧貴族は、生涯結婚せず色恋を楽しんでいたが、ある日恋人に裏切られ妹の大切にしていた指輪を盗まれたことをきっかけに、妹からこっぴどい仕打ちを受け、財産を失いかける。そんなとき、ひょんなことから飛び込んできた若い女性と純粋な恋に落ち、老齢にして本当の愛を獲得する。また別の設定では、幼少期に多忙な親の愛を受けられず、家庭教師との間でホモセクシュアリティに目覚め、成人後「経済的支援」で家庭持ちの貧しい南部男の愛をつなぎとめるエリート・ジャーナリスト、という屈折したパーソナリティも登場する。



そして、たくさんの登場人物のなかでも作家が最も紙面とエネルギーを注入して描くキャラクター、タハ・シャズリは、フラットのドアマンの息子で、日々住人の遣いっぱしりで小銭をもらう低い身分でありながら、持って生まれた才能と努力で高校を最優秀の成績で修了する。しかしながら、露骨な社会差別に警官になりたいという進路を阻まれ、挫折感を抱えて宗教的原理主義に魅了されていく。貧しくとも清貧さと勤勉さを大切にし、同じ価値観を共有する恋人に恵まれ、そして努力を積んで社会に貢献する人物になろうとする少年期から、社会に裏切られ恋人の裏切りに会う過酷な体験を経て、カイロ大学に入学する青年期までのタハの成長の足跡が丁寧に、魅力的に描かれている。大学は自家用車を乗り回す裕福なボンボンと、地方出身者を中心とした貧乏学生とに二分されていて、二者は決して交わることがない。後者はイスラームの教えに反するとして物欲に溺れる前者を憎み、まとまったグループとしてイスラーム原理主義者の拠点となっているモスクに吸い込まれていく。タハもまた、自分を裏切った「カイロを支配する者たち」の腐敗を憎み、そんな間違った社会を正したいと願うようになっていく。時は湾岸戦争。エジプト政府は、多国籍軍のイラク攻撃を支持し、それに抗議するイスラーム主義者の組織的活動を弾圧していく。タハもまた官憲に拘留され、暴力と辱めを受け、権力に対する復讐心を燃え上がらせるのだが、その契機をとらえた組織上層部はタハを組織内の戦闘集団に組み込み、いよいよタハはジハードを敢行するに至る。



この作品には、カイロという街、エジプトという国が、一握りの金を握る権力者たちと金のない大多数の人民とに二分され、前者が全てを支配するという構図が明確に設定されていて、その理不尽に対する作家の怒りが全体を貫いている。清貧な暮らしを望みはすれど、それでは生活が立たず、結局、上から権力を行使する者たちに屈せざるを得ない、そういう大部分の市民の気持ちを代弁したということが、この本の圧倒的なセールスとなって現れているのだろうか。運転手さんなど、自分の身近にいる「カイロ市民」と話していても、道路の大渋滞から、病院など公共サービスの敷居の高さと怠慢、そしてインフレで苦しくなる一方の生活状況に対する怒りが口をついたら止まらないことがある。それらをおおらかに笑ってやり過ごすエジプト人の国民性をもってしても耐え難い負の圧力が、日に日に強まっているかのようである。こうした感覚、感情の本当のところは、強い円をもって束の間軒下を借りる僕たち日本人には分かりえないものだ。作品が真実を描いているかどうかという問題とは別に、異例の数の読者を獲得したという事実が、作者の設定する構図で社会を眺め、権力の理不尽さに憤りたい多くの市民がいること、そしてその市民感情を引き起こすに至る政治社会状況が現に存在することを示しているように思われる。



他方で、この小説が文学としてどのように評価されるべきか、個人的には留保をつけたい。第一に、「富裕層による寡頭支配」という構図設定そのものに作者のイデオロギーの臭いがする。よしんばそれが、社会を俯瞰した場合に真であるとしても、作品のある登場人物が完全なる支配者性を仮託され、別の登場人物は純粋な被支配者であるような描き方は、文学がもつ隠喩の喚起力とは対極をなすものである。タハ・シャズリ青年が権力に踏みにじられ、イスラームの力を背に復讐を果たすまでの物語は、読み物として惹きつけられるとことはあるが、現代政治におけるイスラーム過激主義の問題をあまりに単純化して文学のなかに持ち込んだ感がある。タハ青年の辿った道は、一人の人間が宗教に救いを求める数多ある道筋の一つのパターンとして実際にありうるとは思うけれども、文学である以上、タハ青年の生き方の提示によってむしろ、その他の「数多ある道筋」の方にこそ読者の想像力を向けさせることが必要だったのではなかろうか。ホモセクシュアリティの問題にしても、イスラーム過激主義同様、なぜこの作品で社会的マイノリティのエッセンスだけを抽出したようなキャラクターを次から次へと出す必要があるのか、その理由づけが不明である。権力に蹂躙・翻弄される一般市民のことを描きたいならば、わかりやすく極端な個性に走るよりも、凡庸な個人の微妙な心の振幅をこそ描くのが文学ではないか。そう思うと、この作品が先の書評が言う「現代のエジプト社会と文化を驚嘆すべき筆致で描き出している」ものであるかどうか、疑問なしとしないのである。



さはさりながら、これがカイロっ子に広く読まれる理由はなんとなく想像できるし、一外国人がカイロ社会の入門書として、できるならば良質な社会評論と一緒に読んでみても、得られるところが少なくはない。



なお、
Yacoubian Building2006年にマルワーン・ハーミド監督によって映画化され、同年のパリ・アラブ映画ビエンナーレでグランプリを受賞している。日本でも国際交流基金が上映し、この324日にも再上映する予定。
僕自身は観る機会を逃しているので、映画に対するコメントはできないが、原作の弱さがどのように現れているか、後日
DVDで観てみたいと思っている。タハ青年が原作同様に描かれ、そしてヨーロッパで評価されているとすると、Alaa Al Aswan氏がもしかすると肯定したかったかもしれないタハの過激主義への傾倒を、欧米世界はネガとして受け取り、「イスラーム世界」の飼い慣らしの肥やしにしたかもしれない。果たしてそれが作者の意図したことだったかどうか。

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