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一息ついたところで、うちのスタッフがアンケート集計を届けてくれたので、興味津々で目を通した。学園青春熱中ドラマの数々で日本中の映画ファンを虜にする矢口史靖監督の『スウィングガールズ』は、文句なしに大好評。アンケートに答えた78人中53人がVery good, 21人がgoodという評価だった。若手、中堅監督の良質なコメディをはじめて見たという観客がほとんどで、その面白さとアーティスティックなレベルの高さの両方に驚いたという感想が多く聞かれた。「矢口節」が世界で遍く愛されるということが、はっきりと確認できた。
『父と暮らせば』は、脚本・ディレクションともに優れた秀作として、自信をもって提供した作品だったが、77人中Ordinaryが5人、Bad or Boringが8人いて、全体としては好評なるも楽しめなかったオーディエンスがいたことがわかった。コメントを見ると、「もっとExterior(外交的な)映画を!」とか、「登場人物が限定されすぎ。ちょっと陰気くさすぎ。」などといった感想がちらほらとあって、この国の映画愛好家のテイストにはなじまない部分があることがわかる。もうちょっと洗練された評価だと「この映画は少し演劇的な傾向が強い。長い劇を見せられているような気分になるが、もう少し映画的に優れたひねりが必要ではないか。」となる。一方では、「ヒロシマについての情報が足りない。自分はもっと知識が得られると期待してきた。」というようなコメントもあり、映画を通して歴史の外形的な情報も得たいと望む人たちがいることがわかった。僕らの感性では、父と娘の間の会話の積み重ねにこそ人間的な情愛が篭っていて美しいということになるのだが、陽気なエジプトの人たちはもう少し外に表出される感情表現を好むのかもしれない。
『銀河鉄道999』は、30年近く前の作品だが、当時のアニメーション技術の粋を凝縮させた傑作は、今見ても決して見劣りがしない。実際、多くの観客がプリントの劣化を嘆きつつも、オリジナルの技術の高さを賞賛していた。コンセプト自体に対する評価も高く、「大きな想像力をもった作品。80年代初頭という時代を感じさせないい今も新しいアイデアが詰まった、人間感情の深みを探求する作品。」という、主催者冥利につきるコメントも頂戴した。興味深いのは、この映画が「政治的」だというコメントを何人かが寄せていることで、ロボットを量産するメーテル星を、「残虐で人間的あたたかみのない悪の技術帝国」とし、それは現代のアメリカを表象しているのではないか、というような読みをしていた。幼少期に松本零二のアニメーションに胸ときめかせた自分としては、星野哲郎の人間としての成長こそが大切な主題なのだが、見る人とコンテクストが変われば、違った見え方があるものだ。
アンケートをとおして、ちょっとだけエジプト人の感性について知ることができた。こういう勉強の積み重ねを大事にしていきたい。
2月5日から、凧の専門家、大橋栄二・瑛子ご夫妻をカイロに迎えている。年齢の話題ばかりもちだすと気分を害されるのだが、記さないわけにはいかない。栄二さん76歳、瑛子さん71歳。縁側で日がなお茶を飲んでいてもおかしくない年代のお二人は、いまも年の半分ほどは凧の指導・実演で世界中を飛び回っている。
今回は、大きく2つの事業を行った。その1つが「ピラミッドで凧揚げ」。日本人学校の生徒さんに凧を作ってもらうほか、大橋さんが持参した凧も使って、エジプト人も大人も子供も一緒になってピラミッドで凧を揚げるのだ。カイロに夜遅く着いたその翌朝に設定された日本人学校での凧作りワークショップで、お二人はさっそく時差ぼけをふっとばして熱心に指導にあたる。桃太郎や龍やピカチュウの図柄をウォッシュプリントした縦30cm×横15cmほどの和紙に、子供達がマーカーで色をつけていく。絵ができたら、縦半分のところにまっすぐの、横は上下とも中央部にむかって湾曲した竹ひごを、セロテープで接着。上から3分の1程度のところに空いている小さな穴に凧糸を結びつけ、最後に左右の角にしっぽをつけて完成だ。小学校1年生から中学校3年生までが、それぞれのペースで凧づくりに励み、予定どおり2時間で全員の凧が完成した。
2日後の2月8日。エジプト考古庁に特別に許可いただいたヘリポートのスペースを借りて、日本人学校の生徒、カイロ大学の学生など100人あまりを集めた、ギザの3大ピラミッドでの凧揚げ大会が幕を切った。日本人学校の子供たちは自分達が作った凧を、それ以外の参加者たちは大橋さんが用意した大凧や、ビニール袋で作った小型の「インベーダー凧」を揚げる。そして極めつけが、大橋さん発明の「アーチ凧」。原理は連凧だが、このアーチ凧のユニークな点は、2つの連凧をつないでアーチ上に揚げることにある。発明者の大橋さんの解説によると、これまでの連凧は切れたら飛んでいって回収不能となる点、そしてある枚数を越えると負荷が強くて一人では支えられなくなる点が問題だったが、これを2つ繋ぐことによってこれらの問題の解消に成功したとのこと。実際、300枚以上が上空に舞ってもなお、負荷はなんとか一人で支えられる程度だった。これまでもお二人は湾岸戦争直前のクウェート・タワーや、壁崩壊前後のベルリンなどでこのアーチ凧を揚げており、とうとうピラミッドという長年の夢を果たしたのだった。風のほうは残念ながら弱い南風で、ピラミッドに向かってアーチをかけることはできなかったが、群青の空に高々と舞う連凧が、カイロの冬の終わりを告げていた。
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2つ目のプロジェクトが、エジプト人の子供たち対象の凧制作と凧揚げのワークショップで、われわれは、ピラミッドでの凧揚げの疲れを他所に、翌日2月9日早朝から、子供たちと日が暮れるまで遊んだのだった。
会場として選んだのは、イスラミック・カイロ地区のアズハル公園に隣接したAl Darb Al Ahmar(ダルブ・エル・アハマル)というコミュニティ。ここにオフィスを構えるアガ・カーン財団の敷地内で凧作りをして隣の公園でできたての凧を揚げるという3時間のプログラムを、午前と午後の2回行った。
ダルブ・エル・アハマルは、もともとは四方をゴミが覆いつくすような低開発地域だったらしいが、イスラーム世界において開発、雇用創出、人材育成などさまざまなプログラムを実施しているアガ・ガーン財団がこの地域に公園をつくる計画をたて調査をした際に、ごみの山のなかからアイユーブ朝期の城壁が現れたことで、一躍注目を集めることになった場所だ。この城壁が十字軍から人々を守ったという。そんな「生きた」歴史遺産の復興の音頭とりをアガ・カーン財団が担い、住民の意識向上を通した住民自身のオーナーシップによるコミュニティの活性化がすすめられている。
このコミュニティの子供たちに凧作りを楽しんでもらおうという今回の着想も、ダルブ・エル・アハマルの将来を担う世代にものを作って遊ぶ楽しさを味わってもらおうというささやかな気持ちから出たもので、カイロで30年以上にわたって子供たちの教育やスポーツ振興に取り組むマリヤム進士さんから国際交流基金が提案を受けて実現した。
凧作りの手順は日本人学校でのワークショップとまったく変わらない。全体を通して作業の手際良さとか器用さという点では、授業を通して経験を積んでいる日本人のほうが若干勝っていたが、ドローイングや色塗りについてはエジプトの子供たちのほうがお手本を気にせずユニークな作品を作ったように思う。低学年の児童に対しては大人や高学年生が手を貸してやり、午前も午後も一人一個、自分の凧が出来上がった。お隣のアズハル公園は外からの一般客からは入場料をとるようや立派な公園で、それだけにとても綺麗に管理されているが、ダルブ・アル・アハマルの子供たちは地続きで自由に入って楽しめる。周囲をモハンマド・アリ・モスクなどの歴史的建造物に囲まれた広い草地で、たくさんの凧が上空を舞った。
大橋ご夫妻は、気前よく何百人分もの凧の材料を無償で提供してくださり、出来上がった凧も子供たちに持って帰ってもらっている。こうして何十年にもわたって、世界中で子供たちとともに凧を作り、飛ばし、自然と遊ぶお二人が、実年齢以上に若々しいのは当然のことと、この数日間ご一緒して肌で実感した。明日帰国して、今度は18日からはマレーシアのジョホールバルのフェスティバルに出かけるそうで、栄二さんはフェスティバル期間中に喜寿を迎える。大橋栄二さんにいただいたご著書『創って揚げる手づくり和凧入門』(1990年、山海堂)の扉に直筆で書かれた言葉は、「凧下太平」。凧の下には太平の世が広がる。戦乱の地、心が荒廃した地には凧は上がらない。思い返すと、最後に凧揚げをしたのはいつのことだったろうか。「凧下太平」という金言に照らしてみたとき、現代の日本社会の危うさに思い至った。
エジプトの地を観光で訪れた人のほとんどがピラミッド、考古学博物館とならんで、このグラン・バザールを訪れる。土地の商売人と難儀な交渉をしながらみやげ物を買う喜びに浸るのみならず、14世紀以来のたたずまいを残した「生きた伝統」がもつ空気に異国情緒をかきたてられるようである。
そんなハーン・ハリーリに、僕も過去の出張時をふくめて何度か足を運んでいたのだが、こうして生活者として土地の人のガイドで入り込んでみると、また違った感覚がめばえてきて面白い。なにせ、この日のメイン・イベントが「ピザを食べる」というのだから、歴史のドラマに思いを馳せるとかそういった類のロマンチシズムとは別の趣だ。(イスラム文化の中心でどんなピザかいな?)といぶかしく思いながらついていったお店で出てきたものは、パン生地の中に肉やらチーズやらをつめたもので、名前をフィティールという
お腹をふくらませた後は市場散策。金細工・銀細工のお店、螺鈿のお店、ファラオニック・エジプトのみやげ物屋さん、スパイス屋さん、カフェなど、さまざまな店が軒を連ね、商売人が複数の言語(もっぱら日本語と中国語)を駆使して客引きに精を出す。かつて何度か訪れた際にも聞こえてきた懐かしい日本語のフレーズ、「バザールでゴザール」を唱える化石のような客引きもいて失笑を誘う。X先生御用達の銀細工屋では、気前の良い店主が娘の沙羅のためにスカラベ(フンコロガシ)のネックレスをプレゼントしてくれ、その後の旅道中で沙羅はずーっとフンコロガシをなでさすることとなった。
スパイス屋さんでは、一度見てみたかった「乳香」という香料と遭遇したが、X先生がエジプトで売られている乳香はクオリティが良くないので、ドバイあたりで買い求めると良いと言うので、買うのはとりやめにした。やはり、シバの女王のイエメンまで行かないと上等な品には出会えないようだ。
エジプトに来る1月ほど前、盲腸で入院した。切らずに抗生剤の点滴で散らしていたので、いたずらに入院期間が延びてしまい、ヒマにまかせてエジプトが生んだノーベル文学賞受賞者ナギーブ・マフフーズの名著『バイナル・カスライン』(二つの城の間で)を読了した。英国支配からの独立運動激しい19世紀末のハーン・ハリーリが舞台のこの作品を読んだ人なら誰でも、この市場を訪ね、2階、3階の壁にしつらえられた木製の窓、マシュラビーヤなるものを確かめたくなるはずだ。
訪問先のなかで面白かったのは、Gezira Art Center、Palace of Arts、Beit El-Oud(ウード・ハウス)の3つ。
Gezira Art Centerは、マリオット・ホテルのすぐ傍にあり、昔の宮殿をギャラリーとして使用した文化コンプレックスだ。正面のメイン・ギャラリーには、11世紀ファーティマ朝エジプトから17世紀オスマン・トルコにいたるまでの陶磁器のコレクションが展示されていて、美しく効果的にアレンジされたライティングと相まって、イスラーム美術の極みを堪能させてくれる。オスマン朝の陶磁器ともなると植物などを模した抽象的な文様をモチーフにしたデザインが完成の域に達しているのだが、ファーティマ朝時代の器には、牛やウード弾きの図柄が生き生きと描かれていて、一瞬、インドの陶磁器を見ているような錯覚に陥った。無料で見せてくれるので、休日にゆっくりと来たい場所のひとつである。裏側の3つのギャラリーは企画展のために外部貸し出しをしていて、71年生まれの作家の銅や石を使った彫刻展、74年生まれの作家の銀のジュエリー展など、比較的若い作家にスペースを提供している様子。
カイロ・オペラ・ハウス敷地内のPalace of Artsは、現在企画されている展覧会を見た限りでは、エジプトの現代芸術の最前線の発信基地という印象。かつて国際交流基金のフェローとして訪日もした作家のMohamed Abou El Nagaさんが、自分の作品を含めて今回の展示作家・作品を丁寧に案内してくれた。Abou El Nagaさんの作品タイトルは"The Lion!"。
同氏の社会貢献活動も世界的に高く評価されているとのことであり、『ニューズウィーク日本版』2007-7・18号「世界を変える社会起業家100人」のなかで、
農産物から紙を作り、アーティストたちの自己表現を支援
-ムハンマド・アブル・ナガー(Muhamed Abou El Naga:エジプト、雇用)
エル・ナフェザ・センター:http://www.elnafeza.com/
というふうに紹介され、紙漉きを通した雇用創出と創作支援で注目を集めているそうだ。いずれ、彼らの活動を視察してみたい。
最後に訪れたのが、世界的ウード奏者、ナシール・シャンマが代表を務めるウード・ハウス。ナシール・シャンマは、国際交流基金による訪日公演やテレビアラビア語会話などでおなじみの人も多いと思うが、カイロを拠点に公演と教育活動を行っているイラク人ウード奏者である。訪日公演をカイロサイドから動かしたM君の帰任挨拶にくっついていく形で、イスラミック・カイロの中心、アズハル・モスクの裏手にあるウード・ハウスに彼を訪ねた。
薄暗く細い路地を抜けたところにある建物から、ランプシェードの明かりとともにウードの深く哀愁を帯びた旋律が漏れてくる。外国人の異国趣味をさっそくに大いに刺激する佇まいのなかから、細身にノーネクタイのスーツを軽く着こなしたダンディーが現れ、僕達を迎えてくれた。東京公演で遠巻きには眺めて見てはいたが、実際に会うと、これが実にカッコイイ。彼のオフィスに通されるとカイロ国際ブックフェアに来ているパレスチナの詩人と出版関係者の一向が先客としていて、ナシールとアラビア語で昨今の難しい政治・社会状況について語り合っていた。ほとんど理解できなかったけれど、受難のただなかにある2つの民族ゆえの共感がそこにはあるようだった。
ここでウードを習いたいと言うと、快く受け入れてくれると言う。実際に習っている知人にあとで聞いたところ、ナシール本人から教えを受けることはほとんどなく、教官となるのはそのお弟子さんらしいが、それは世界中どこでもそういうものだろう。ナシールの優れた人間性とウード・ハウスの佇まいだけで、僕を虜にするには十分すぎたようだ。第二子の出産と育児が軌道に乗り出したら、いずれ門を叩いてみたいと思っている。
http://www.naseershamma.com/
引継ぎの締めくくりとしての、カイロの文化や芸術に関係した事業を行う団体の代表者への表敬訪問が、今日から始まった。
12時のアポイントにあわせて到着してみると、Mohamed氏はまさに進行中の子供向け環境教育プログラムの只中にいて、しかもゲストの環境大臣をホストしていて大忙しだった。そんななか、カイロをまもなく離れるMくんに挨拶すべく、時間を作ってこちらに来てくれた。7月26日通りがゲジーラ島の西側でナイル川に面する川岸にしつらえられた施設は、屋外コンサート会場がひとつ、室内オーディトリアムが大・小ひとつずつ、ギャラリーがひとつ、それに図書館からなる文化コンプレックスで、今日は、まもなくはじまるセミナーを前にして、数百人の子供達と来賓たちでごったがえしていた。7月26日通りの喧騒が室内にも若干反響しはするが、ナイル川を背景にコンサートだなんて、興をそそられる日本のアーティストが結構いるかもしれない。
2件目は、Muhammad Mahmoud Khalil Musium。そのまんま美術館の名前になってしまったムハンマド氏は世界の美術品のコレクターで、死後、ご遺族がそのコレクションを美術館という形で一般に公開するようになったものだそうだ。今日訪問したのは別館のOfiq Hallのほうで、こちらは国内外のアーティストの作品展を企画・実施している。僕達を迎えてくれた館長のIhab Ellabban氏は、自身も彫刻家の若き俊英で、この施設の経営をまかされているだけでなく、本年12月に予定されているカイロ・ビエンナーレの総合ディレクターという大役も背負っているという。同氏は、いまだカイロに本格的な日本の美術が紹介されたことがないと嘆き、両国のトップ・アーティストの作品を共通のコンセプトのもとに紹介する展覧会をいずれ開催したいとの希望を力強く述べていた。
この2つの施設を動かす人たちと話していて確認できた共通点は、この若い世代のエジプト人たちが、かつて栄華を誇ったエジプトの文化・芸術の復興を真剣に考えていて、そのために特に若い世代に対して本物を見せ、創作のためのスペースを提供しているということにある。1930年代から60年代くらいまでの、エジプトがアラブの文化的な拠点であった時代のことを先代から語り伝えられた彼らは、現在のエジプトがその地位から転落しつつあることを正確に認識し、現状を憂い、そして復活のために必要な作業を自ら率先して実践している。インドでもこうしたプライベート・セクターで活躍する教養人たちが、欧米世界のファンダーたちから資金その他のサポートを上手に確保しながら、行政とはまた違ったアプローチで文化の再生・活性化にとりくんでいたが、ここカイロでも同じ香りのする人たちががんばっていることを確認できたことがうれしかった。
この先、彼らとどんなことができるかわからないけれど、足しげく出かけてプログラムを楽しみながら、一緒に面白いアイデアを出し合っていきたい。
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